烈祖と忠武侯

有司奏、武皇帝撥亂反正、為魏太祖、樂用武始之舞。文皇帝應天受命、為魏高祖、樂用咸熙之舞。帝制作興治、為魏烈祖、樂用章斌之舞。三祖之廟、萬世不毀。其餘四廟、親盡迭毀、如周后稷・文・武廟祧之制。
(『三国志』明帝紀、景初元年)

三国志』注の引用で孫盛にメタメタに悪く言われている件。
魏の明帝は自らの廟を「烈祖」とするべしという臣下の提案を裁可した。つまりそれを公認したのであるから、自分もそれでいいと思ったということ。

当時の人間にも孫盛のように感じた者も少なからずいたのではないかと思う。



そして、それと対になる件がある。

魏朝初諡宣帝為文侯、景王為武侯、文王表不宜與二祖同、於是改諡宣文・忠武。至文王受晉王之號、魏帝又追命宣文為宣王、忠武為景王。
(『晋書』礼志中)

司馬懿司馬師が死んだ時、魏は文侯、武侯という諡を贈ったが、司馬昭は「魏の武帝・文帝と同じなんて恐れ多い」ということを理由に諡の変更を申し出た。
この感覚は分かりづらいが、諡は何もつかない「文」「武」が最高にグレードが高く、「文宣」「忠武」はそこから一段落ちるのだという。
イチロー」と「大分のイチロー」の違いみたいなもので、何も付いていない方がホンモノなのである。

司馬昭は、敢えて父と兄の諡をダウングレードしたのだ。
もちろんこれは周囲の歓心を買おうという計算づくの行為だと思われるが、敢えて魏の皇帝から一歩引き、司馬氏に死後も与えられている栄誉をわずかながら格下げしたということは、つまり謙虚さという美徳を示したのである。


「祖」を冠する廟はその王朝、その氏の開祖やそれに匹敵する功績のある者にしか与えられない。
明帝は自ら「自分はそれだけの功績がある」と宣言したのである。
謙虚、謙譲という観点から見てこれはどうなのか。
当時の人間に孫盛のような気持ちを抱いた者が相当数いたとすれば、彼らはきっと司馬昭による「諡ダウングレード」と対比したのではないだろうか。
「明帝は生きている内から功績を誇ろうとしていた。司馬氏は死んでもなお謙虚であった」という風に解釈したのではないだろうか。