京兆王

三国魏の文帝の子、曹礼。

彼は文帝が禅譲を受けて皇帝になった直後、黄初二年に秦公に封じられ、翌年に京兆王となった。

京兆つまり三輔の中心、長安やその近辺が封国ということになる。


漢代においては三輔や三河(河南、河内、河東)は軍事、政治、生産、経済すべての面における要地であり、王朝の直轄地とされて諸侯王の領地とはされなかった。
後漢末に少帝が廃位後に弘農王にされたのは例外に属する。ほかにも後漢初の右翊公のような例もあるが、珍しい例であることには変わりは無いはず)


戦乱その他の結果、魏王朝が生まれた頃には長安近辺はもはや特別視される存在ではなくなっていたのだろうか。