『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その39

その38(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/06/14/000100)の続き。





二十一年夏四月甲午、曹操自進號魏王。
五月己亥朔、日有食之。
秋七月、匈奴南單于來朝。
是歳、曹操殺琅邪王熙、國除。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安21年。



曹操、魏公から魏王へ。



漢王朝には「非劉氏而王、天下共撃之」という高祖劉邦による命令があったとされていたわけだが、曹操は「王になったからってもうワイを討とうと思うようなヤツなぞおらんやろ」という感覚になっていたのだろうか。


任命するのは一応は献帝ではあるが、まあ曹操が全く望まないような命令を献帝が一方的に出せた状況にも思えない(そんな事が出来るなら伏皇后は連行されない)ので、曹操サイドの意思で出されたものなのだろう。



ちなみに、曹操は魏公・魏王になっていても漢王朝の丞相と冀州牧の地位は保持し続けている。



初、(劉)邈至長安、盛稱東郡太守曹操忠誠於帝、操以此徳於邈。
建安十一年、復立容子熙為王。在位十一年、坐謀欲過江、被誅、國除。
(『後漢書』列伝第三十二、琅邪孝王京伝)


琅邪王劉熙は、親族が曹操を褒めたたえていたという事から王に復帰できたのだ、とされている。



今回、その琅邪王劉熙は長江を渡ろうとした、つまり孫権の側に付こうとしたという事で処刑された。



詳しいところは分からないが、なんというか因果は巡る、という感じだ。



なお、この時期に曹操孫権との戦いに乗り出していた。琅邪王劉熙の動きというのも、何らかの形でそれに関係していたのかもしれない。