太子早卒

后被髮徒跣行泣過訣曰、「不能復相活邪?」帝曰「我亦不知命在何時!」顧謂(郗)慮曰「郗公、天下寧有是邪?」遂將后下暴室、以幽崩。所生二皇子皆酖殺之。后在位二十年、兄弟及宗族死者百餘人、母盈等十九人徙涿郡。
(『後漢書』皇后紀下、献帝伏皇后)

後漢献帝の伏皇后はかつての父への手紙を理由に罪に問われ、廃位されて死んだ。
彼女が産んだ皇子二人も毒殺された。

太子早卒、孫康立五十一年、晉太康六年薨。
(『後漢書孝献帝紀)

後漢献帝の太子は父より先に死んでおり、孫の劉康が献帝の山陽公を継いだという。


ところで献帝の太子は何者だろうか。
「太子」というくらいだから嫡子であり年長の子であるのが普通であるから、即位間もなくから皇后になっている伏皇后が産んだ子供である可能性が高いのではないか。
というより、伏氏は跡継ぎを産んだからこそ皇后に立てられたのではなかろうか。

とすると、伏皇后廃位の際に毒殺された伏皇后の産んだ皇子とは、「太子早卒」と言われているところの「太子」、すなわち献帝の嫡子(皇太子に立てられていたかどうかはわからない)だったのではないか。


曹操の側からすれば、皇后と一緒に嫡子たるべき年長の子を排除することで、劉氏から曹氏への禅譲をより一層近づけたと評価できるかもしれない。
仮に献帝が急死した場合でも、分別のある年長の子ではなく、より幼い少年皇帝を擁立することができ、曹氏の権力が揺らぐことはない、というわけだ。