漢王以前の劉邦

・・・(項)梁乃召故所知豪吏、諭以所為起大事、遂舉呉中兵。使人收下縣、得精兵八千人。・・・

・・・項梁渡淮、黥布・蒲將軍亦以兵屬焉、凡六七萬人、軍下邳。・・・

(『史記項羽本紀)

項梁、項羽らが呉で秦に反旗を翻した時、8千人の兵を集めた。
その後、淮水を北へ渡った頃には6、7万人の兵を得ていた。

・・・於是少年豪吏如蕭・曹・樊噲等皆為收沛子弟二三千人、・・・

・・・還收兵聚留、引兵攻碭、三日乃取碭。因收碭兵、得五六千人。攻下邑、拔之。還軍豐。聞項梁在薛、從騎百餘往見之。項梁益沛公卒五千人、五大夫將十人。・・・
(『史記』高祖本紀)

劉邦が沛で秦に反旗を翻した時、2、3千人の兵を集めた。
その後、碭を落とすと5、6千人を得た。合わせると1万弱というところだろうか。
更に、項梁と合流すると項梁から5千人を与えられた。
なお、項梁はこの時淮水を渡って少しした頃。兵力は6、7万人だった時期である(多少は増えていたかもしれないが)。


こうして見ると、劉邦は項梁に合流する前から結構バカにできない兵力を集めていたし、項梁の元でも大勢力とまではいかないにしてもなかなかの兵力であった。
しかも、英布も数千人を集めていたというが、既に合流していた英布などではなく劉邦に兵を加増しているあたり、実は劉邦の評価(主に軍事的なもの)はこの時既に高かったのではないかとも思える。