『史記』項羽本紀を読んでみよう:その9

その8(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20180824/1535037431)の続き。






章邯已破項梁軍、則以為楚地兵不足憂、乃渡河撃趙、大破之。當此時、趙歇為王、陳餘為將、張耳為相、皆走入鉅鹿城。
章邯令王離・涉輭圍鉅鹿、章邯軍其南、築甬道而輸之粟。
陳餘為將、將卒數萬人而軍鉅鹿之北、此所謂河北之軍也。
楚兵已破於定陶、懷王恐、從盱台之彭城、并項羽・呂臣軍自將之。以呂臣為司徒、以其父呂青為令尹。以沛公為碭郡長、封為武安侯、將碭郡兵。
(『史記』巻七、項羽本紀)

章邯は矛先を趙に向け、張耳と趙王は鉅鹿城に包囲された。



当時の趙王趙歇は陳勝から独立した武臣の死後に張耳・陳余が立てた元の趙王の末裔。傀儡のようなもので、実際には張耳と陳余が牛耳っていたと見ていいだろう。




ちなみに、秦将の王離はあの王翦の孫である。





一方、楚の方では懐王がこの機に乗じて軍事権の回収を図ったらしく、項羽や呂臣の持っていた兵は懐王に奪われたようである。



劉邦は別になっているのは、懐王は自ら彭城へ行く事で軍事権を直接回収したという事だろうから、彭城ではなく碭郡の方にいた劉邦にはその手が及ばなかったという事だと思われる。





以上の通り、ここで項羽と楚にとって重大な事が起こっている。



項梁の死後、項羽はもしかしたら一旦は項梁の兵を掌握したのかもしれないが、その兵は懐王の直下に置かれたらしい、という事である。



王なのだから権限の上ではおかしくないのだが、それまでどう考えても項梁の傀儡だったわけだから、大きな変化であろう。




そして項羽の方は、項梁の持っていた兵も、実質的な楚の指導者としての地位も、引き継げないでいた、という事である。