楚の上柱国

廣陵人召平於是為陳王徇廣陵、未能下。聞陳王敗走、秦兵又且至、乃渡江矯陳王命、拜梁為楚王上柱國、曰「江東已定、急引兵西撃秦。」
項梁乃以八千人渡江而西。聞陳嬰已下東陽、使使欲與連和倶西。
陳嬰者,故東陽令史、居縣中、素信謹、稱為長者。東陽少年殺其令、相聚數千人、欲置長、無適用、乃請陳嬰。嬰謝不能、遂彊立嬰為長、縣中從者得二萬人。少年欲立嬰便為王、異軍蒼頭特起。陳嬰母謂嬰曰「自我為汝家婦、未嘗聞汝先古之有貴者。今暴得大名、不祥。不如有所屬、事成猶得封侯、事敗易以亡、非世所指名也。」嬰乃不敢為王。謂其軍吏曰「項氏世世將家、有名於楚。今欲舉大事、將非其人、不可。我倚名族、亡秦必矣。」於是衆從其言、以兵屬項梁。
項梁渡淮、黥布・蒲將軍亦以兵屬焉。凡六七萬人、軍下邳。
(『史記項羽本紀)

秦末の東陽令史陳嬰は県の蜂起の際に大将に祭り上げられ、2万人という大勢力の長となった。
しかし彼は敢えて兵8千人の項梁に従うことを選び、項梁はこれによって一気に大勢力となったのである。

項梁にとっての陳嬰は、傘下に入った順番で言えば一、二を争う早さということであり、しかも一気に雄飛する元手を与えてくれた恩人と言っていいだろう。
項梁が懐王を立てると、陳嬰は上柱国すなわち宰相となった。恩に報いる人事だったと言えるかもしれない。


その後、項羽が天下を牛耳るようになった際も陳嬰は楚の上柱国であった。項羽劉邦に敗れると陳嬰は劉邦に付き、反抗勢力を平定して漢のために働いて列侯となった。


項梁と陳嬰の関係は悪くなかったのかもしれないが、項羽と陳嬰の関係は冷え込んでいたように思えるのは気のせいか。