項羽のミス

ふと思った。

項羽は趙を救い、秦軍まるごと我が物とするという大功を立てた。

趙は項羽に感謝し、それ以降項羽シンパになってしかるべきであろう。


しかし現実には項羽による十八諸侯封建の後、趙は張耳と陳余の内訌の結果、項羽の封建を無にした。項羽に公然と背いたのである。


これは張耳と陳余の争い、趙王歇の扱いなど色々な要素があるだろうが、項羽に反抗した理由の一つはもしかしたら昨日の記事で書いた「項羽已救趙、當還報、而擅劫諸侯兵入關」だったんじゃないだろうか。
つまり包囲から逃れたばかりの趙軍も項羽に従って(従わされて)関中まで攻め込むことになった。
(張耳伝を読む限り、包囲されていた張耳は確かに関中まで行っている。)
この人使いの荒さに趙の人間は項羽に感謝どころか恨んだのではないだろうか。
王になった張耳はともかく、将兵はこの措置を喜んだだろうか。


こうして趙の離反を招いたことで、河内方面が孤立して劉邦にたやすく進出されることとなり、後には趙が各個撃破されることにもなったのかもしれない。