項羽の懐王軽視

漢王數項羽曰「始與項羽倶受命懐王曰「先入定關中者王之。」項羽負約、王我於蜀漢、罪一。秦項羽矯殺卿子冠軍而自尊、罪二。項羽已救趙、當還報、而擅劫諸侯兵入關、罪三。・・・」
(『史記』高祖本紀)

漢王劉邦が対峙する項羽に対して罪状を糾弾した言葉。

楚懐王の盟約に背いて劉邦を関中の王にしなかったこと、宋義を殺したことに続いて、「趙を救ったあとに懐王のもとへ帰って報告せず、勝手に諸侯の兵を連れて関中に入ったこと」を罪としている。

項羽が趙を救った後に関中を目指したことは独断専行で王命をないがしろにするものだった、というのである。

趙數請救、懷王乃以宋義為上將軍、項羽為次將、范筯為末將、北救趙。令沛公西略地入關。與諸將約、先入定關中者王之。
(『史記』高祖本紀)

確かに、高祖本紀における劉邦が関中へ向かった際の記事を読む限りでは、宋義、項羽らの軍の目的は秦に攻撃されている趙を救うことであり、その後どうだったのかは不明である。
「先に関中を平定した者が王になる」との盟約から考えると趙を救った後は関中へ進軍することは想定されていたのかもしれないが、当面の目標を達成したなら王命を待って行動すべきだというのは正論だろう。


現実には劉邦に先を越されたくない項羽にはそんな悠長なことを言っている余裕は無かったのかもしれないが、ただでさえ楚王が上将軍に任命した人物を殺害し自分がその地位に収まるというクーデターを実行した項羽としては、自分の野望のためにこそ、せめて趙を救った後には楚王を尊重する態度を見せておくべきだったのかもしれない。
劉邦は楚王には一度も背いていないのだからなおさらである。

「罪三」は、地味ながら諸将、諸侯の項羽への評判を意外と下げたのではないかと思う。