舂陵国と蔡陽県

光武帝劉秀や城陽恭王劉祉は『後漢書』によれば南陽郡蔡陽県の人とされている。

しかしよくよく考えてみると、光武帝はともかく劉祉はもともと舂陵侯の子なんだから、舂陵国の人間ではないのだろうか。

と思って『漢書』を調べてみた。

舂陵。侯國。故蔡陽白水鄉。上唐鄉、故唐國。
(『漢書』地理志上、南陽郡)

つまり、舂陵国は蔡陽県から分割されたものなのだ。
要するに昨日紹介したように舂陵侯移転の申し出を認められた時、漢は南陽郡の蔡陽県を分割して新たな舂陵国を作った。

そして後漢になると舂陵国は廃止された。そこでおそらく蔡陽県に戻されたのだろう。
つまり後漢時代には劉祉たちの生まれ育ったと思われる舂陵国(だった土地)は蔡陽県になっていたのだ。
だから、後漢において光武帝や劉祉たちは蔡陽県の人と呼ばれているのだろう。
逆に言うと、前漢末期の頃、光武帝たちの定住地の行政区画上の呼び名は舂陵国で、蔡陽県ではなかったと思われる。

あと直接関係ないがオマケ。

蔡陽。莽之母功顯君邑。
(『漢書』地理志上、南陽郡)

前漢末期の蔡陽県、つまり光武帝たちのいる舂陵国(当時)のお隣は王莽の母親の領地だった。
それに南陽郡には他にも王莽の領地である新都国、王莽の叔父王立の領地である紅陽国もあった。前漢末期の南陽郡は王莽たち外戚王氏の一大拠点だったと言えるかもしれない。