前漢末、同志安衆侯劉崇の反乱が失敗するのを見た舂陵侯劉敞(光武帝らの一族の本家筋)は、反王莽活動の味方を増やすために成帝の時の丞相翟方進の後継ぎである高陵侯翟宣の娘と自分の嫡子劉祉を娶わせた。
丞相翟方進が持っていたと思われる幅広い人脈に期待したのだと思うが、舂陵侯劉敞はどういうコネクションがあって高陵侯翟宣との縁談をまとめることができたんだろうか。
兄(翟)宣靜言令色、外巧內嫉、所殺郷邑汝南者數十人。
(『漢書』巻八十四、翟義伝)
翟宣はどうやら故郷の地である汝南郡でかなりの勢力を誇っていたようだ。
そんな人物と南陽郡の舂陵侯劉敞を結ぶのは・・・汝南郡南頓県の県令をしていた舂陵侯劉敞の一族劉欽だな!(想像)
光武帝の親父が反王莽の翟氏と舂陵侯劉敞を結びつけたとかいうストーリーは胸熱じゃないすか?