推恩の令と舂陵侯

於是制詔御史「諸侯王或欲推私恩分子弟邑者、令各條上、朕且臨定其號名」自是支庶畢侯矣。
(『漢書』王子侯表上)

前漢武帝の時代に定められた、いわゆる「推恩の令」。
諸侯王が自分の領地を子弟に分け与えることを許す詔である。
これによって諸侯王の領地が細分化されて弱体化に繋がったと言われている。

ところで、光武帝の先祖は前漢の長沙定王劉発がこの推恩の令で分封した舂陵侯劉買であるが、光武帝たち舂陵侯の末裔は長沙ではなく南陽郡に定住していた。
また『漢書』地理志でも舂陵侯国は南陽郡に属している。
これは不思議。長沙王は南陽郡を領地にしてはいなかったはず。

これについて、以下のような話が伝わっている。

敞曾祖父節侯買、以長沙定王子封於零道之舂陵鄉、為舂陵侯。買卒、子戴侯熊渠嗣。熊渠卒、子考侯仁嗣。仁以舂陵地埶下溼、山林毒氣、上書求減邑内徙。
(『後漢書城陽恭王祉伝)

前漢最後の舂陵侯の子という舂陵侯嫡統である城陽恭王祉の伝によれば、舂陵侯は途中で移転したのだという。

ただ、舂陵侯移転の時点で既に城陽恭王祉の系統(舂陵侯本家)と光武帝の系統は枝分かれしていた。
おそらくは、舂陵侯本家の移転に便乗する格好で光武帝の先祖も一緒に移住したのではなかろうか。

子孫たちの雄飛を考えれば、舂陵侯移転申し出はナイスプレーであった。