紅陽侯家と舂陵侯家

武桓侯(王)泓、建武元年以父丹為將軍戰死、往與上有舊、侯。
(『漢書』巻十八、外戚恩沢侯表)

初、紅陽侯(王)立就國南陽、與諸劉結恩、立少子丹為中山太守。世祖初起、丹降為將軍、戰死。上閔之、封丹子泓為武桓侯、至今。
(『漢書』巻九十八、元后伝)


紅陽侯王立といえば王莽の叔父に当たるのだが、彼の領地である紅陽侯国は南陽郡にあった。


王立はその領地近辺の劉氏の勢力と仲良くしていたという。



「往與上有舊」とは光武帝が王立の孫に当たる王泓と交友関係にあったということであり、王立一家は反王莽勢力であった舂陵侯ら南陽の劉氏たちと懇意であったことが伺える。




及(劉)崇事敗、(劉)敞懼、欲結援樹黨、乃為(劉)祉娶高陵侯翟宣女為妻。會宣弟義起兵欲攻(王)莽、南陽捕殺宣女、祉坐繫獄。敞因上書謝罪、願率子弟宗族為士卒先。莽新居攝、欲慰安宗室、故不被刑誅。
(『後漢書』列伝第四、城陽恭王祉伝)


南陽の劉氏の一人、光武帝の本家筋である舂陵侯劉敞は王莽の叔父王立一家と懇意にしている一方で、王莽に反旗を翻すことになる翟義の家と通婚していたわけだ。



翟義の反乱が失敗に終わると翟氏を娶っていた舂陵侯劉敞の嫡子劉祉も捕えられたが、劉祉は最終的に助けられることとなった。

思うに、これは劉敞の土下座が功を奏したというだけではなく、裏から王立一家のコネクションも総動員して助命活動を行った結果なのではなかろうか。





安衆侯劉崇と翟義、前漢末王莽期の二大反乱者と近しい関係にありながら勢力をひそかに保持しつつ生きながらえた舂陵侯一族って、良く考えたら割と恐ろしい存在じゃなかろうか。