押してだめなら引いてみな

山陽公載記曰、建安十七年、漢立皇子熙為濟陰王、懿為山陽王、敦為東海王。靖聞之曰「『將欲歙之、必固張之。將欲取之、必固與之。』其孟紱之謂乎!」
(『三国志許靖伝注)

許靖の言は正にその通りなのだが、この時の曹操のようなことは王莽もやっている。

夏四月、立代孝王玄孫之子如意為廣宗王、江都易王孫盱台侯宮為廣川王、廣川惠王曾孫倫為廣紱王。
(『漢書』平帝紀、元始二年)

王莽は本心はどうあれ、権力を握ってから即位するまでの間は、少なくとも表向きには「皇帝と宗室劉氏の繁栄を願う」というスタンスを崩さなかった。
そしてそういうスタンスが「皇帝にふさわしい人物」という評判に箔をつけたのだろう。


曹操献帝の皇子を王に立てたのは、おそらくは王莽をなぞったものなのだと思われる。
許靖は王莽のトレースだと気づいたからこそ、ああいう評を下せたのかもしれない。