烏桓と鮮卑

中平二年、漢陽賊邊章、韓遂與羌胡為寇、東侵三輔。時遣車騎將軍皇甫嵩西討之。嵩請發烏桓三千人。北軍中候鄒靖上言「烏桓衆弱、宜開募鮮卑
(『後漢書』応劭伝)

なんだか聞いた事のある名前ばかり出てきますが。


烏桓(烏丸)は弱いから鮮卑を使いましょうよ、ってのが鄒靖の提案。

これに大将軍(何進)の属官は賛成し、「烏桓は数が少なくて鮮卑の仇敵だから、烏桓を徴発すればきっと鮮卑が攻め寄せる。そうすれば烏桓は結局鮮卑との戦いを優先して討伐軍を抜けてしまう。これでは漢に実利がないばかりか、討伐軍の士気を余計に下げてしまう」と後押しする。

車騎将軍(何苗)の属官応劭は反対し、「鮮卑は利益に釣られるだけでロクに軍規も守らず略奪放題だし、守らせようとすれば反乱する。羌の中の反乱してない奴を使う方がいい」と主張し、これが通った。

何進何苗の対立とか色々面白い部分だが、気になるのはこの時期の烏桓鮮卑、羌の漢から見た立ち位置。


鮮卑の方が強くて役に立つと思われており、逆に烏桓は弱いとまで言われていること。

烏桓鮮卑の関係が常に一触即発の危うい状態で、漢のサジ加減一つで簡単に爆発する火薬庫であったらしいこと。

鮮卑は漢にまるで従順ではなく、一方で烏桓は比較的従順であるらしいこと。更に、羌は一枚岩ではなく反乱している集団と漢に与する集団とに分かれていたらしいこと。


この一件だけでは云々できるほどの材料ではないが、こういった認識を頭に入れた上で曹操の烏丸討伐や強制移住、その後の鮮卑の伸長であるとか、蜀漢の北伐と羌、鮮卑の関係であるとかを考えると、ちょっと面白そう。

などと適当なことを言っておく。