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廣陵人召平於是為陳王徇廣陵(『史記項羽本紀)

齊王欲使人誅相、相召平迺反、舉兵欲圍王、王因殺其相、遂發兵東。(『史記』呂太后本紀)

召平者、故秦東陵侯。秦破為布衣、貧、種瓜於長安城東、瓜美、故世俗謂之「東陵瓜」、從召平以為名也。(『史記』蕭相國世家)

秦末漢初のほぼ同じ時期、「召平」という人物がこの三箇所に出てくる。
これは史記索隠で「廣陵人召平與東陵侯召平及此召平皆似別人也」と言っているように、おそらく全部別人。

広陵の召平は布衣となったという秦の召平とは別人だろうし、斉丞相召平がどちらかと同一人物なら、子が文帝の時に列侯になっているので何らかの記述が残るであろうがそれは見えない。