消えていた張挙

前中山相張純私謂前太山太守張舉曰「今烏桓既畔、皆願為亂、涼州賊起、朝廷不能禁。又洛陽人妻生子両頭、此漢祚衰盡、天下有両主之徴也。子若與吾共率烏桓之衆以起兵、庶幾可定大業。」舉因然之。
四年、純等遂與烏桓大人共連盟、攻薊下、燔燒城郭、虜略百姓、殺護烏桓校尉箕稠・右北平太守劉政・遼東太守陽終等、衆至十餘萬、屯肥如。
舉稱「天子」、純稱「彌天將軍安定王」、移書州郡、云舉當代漢、告天子避位、勑公卿奉迎。純又使烏桓峭王等歩騎五萬、入青冀二州、攻破清河・平原、殺害吏民。
(『後漢書』列伝第六十三、劉虞伝)

軍到薊中、漁陽張純誘遼西烏丸丘力居等叛、劫略薊中、自號將軍、略吏民攻右北平・遼西屬國諸城、所至殘破。
(『三国志』巻八、公孫瓚伝)


後漢書』によると後漢末の幽州で起こった張純らの反乱では、反乱のパートナー張挙が天子を名乗り、張純が将軍・王を名乗ったという。





だが、『三国志』では張挙の存在がどうも見えず、すべて張純一人の反乱とされているかのようである。





単に『三国志』は簡略で、後発の『後漢書』の方が単に諸書を参照して詳しいというだけかもしれないが、天子まで名乗った者が記録から消えているというのは、少しひっかかるものを感じないでもない。



三国志』では張純が将軍を自称したというに留まり、漢王朝の皇帝そのものを否定したわけではなかったと解釈できるのだから、張挙の存在が消えていると反乱の様相そのものが変わってくるのだ。






(張)舉・純走出塞、餘皆降散。純為其客王政所殺、送首詣(劉)虞。靈帝遣使者就拜太尉、封容丘侯。
(『後漢書』列伝第六十三、劉虞伝)

もしかしたら、劉虞たちは張挙は取り逃がしたままになっているっぽいことと関係あるんだろうか?




あくまでも首謀者は張純としても、天子を名乗った不届き者を放置した状態で褒賞と昇進を貰えるものだろうか。



劉虞たちの後漢朝廷への報告では、反乱は張純一人が首謀者であり、天子を名乗った者などいなかった、そんな風になっていたりしたという可能性はないだろうか。




そうだとしたら張挙を取り逃がしたことは大勢に影響しない。張純を殺したことで事件は解決である。




そもそも反乱の発生を報告する段階で、センセーショナルな「自称天子」の存在を隠蔽して事件をなるべく小さく見せようという意図があったとしたら、張挙の存在は朝廷においては「無いもの」だったことだろう。



三国志』はこういった当時の公式記録やそれに近い記録に基づいたために張挙の存在が消え、『後漢書』は時間が経って各種の記録、伝承を参照できたために張挙の存在が浮かび上がった。



そんな感じではなかろうか。






むろんこれは特別に根拠があるわけではないが、皇帝の側近(宦官)が反乱を小さく見せようとしたというのは秦末にあった話で、こういう世紀末感濃厚な時代の風物詩と言ってもいいものである。