『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その12

その11(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/01/000100)の続き。





六年春正月辛丑、大赦天下。
二月、南宮平城門及武庫東垣屋自壞。
夏四月、大旱、七州蝗。
鮮卑寇三邊。
市賈民為宣陵孝子者數十人、皆除太子舍人。
秋七月、司空劉逸免、衞尉陳球為司空。
八月、遣破鮮卑中郎將田晏出雲中、使匈奴中郎將臧旻與南單于出鴈門、護烏桓校尉夏育出高柳、並伐鮮卑、晏等大敗。
冬十月癸丑朔、日有食之。
太尉劉寬免。
帝臨辟雍。
辛丑、京師地震
辛亥、令天下繫囚罪未決、入縑贖。
十一月、司空陳球免。
十二月甲寅、太常河南孟𢒰為太尉。庚辰、司徒楊賜免。太常陳耽為司空。
鮮卑寇遼西。
永安太僕王旻下獄死。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

熹平6年。



「宣陵孝子」については、以前に記事を書いていたのでそれを参照。



先是護羌校尉田晏坐事論刑被原、欲立功自効、乃請中常侍王甫求得為將、甫因此議遣兵與育并力討賊。帝乃拜晏為破鮮卑中郎將。大臣多有不同、乃召百官議朝堂。・・・(中略)・・・遂遣夏育出高柳、 田晏出雲中、匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門、各將萬騎、三道出塞二千餘里。檀石槐命三部大人各帥衆逆戰、育等大敗、喪其節傳輜重、各將數十騎奔還、死者十七八。三將檻車徴下獄、贖為庶人。
(『後漢書』列伝第八十、鮮卑伝)

鮮卑に負けた田晏は功績を立てるため(罪があったため、それを贖う功績が必要だった)、宦官王甫を通じて出兵する事を求めてこうなったのだという。つまり自業自得であり、また当時の宦官政治の腐敗を象徴する敗戦だった、という事でもあるのだろう。





太尉となった孟𢒰だが、どうやら少々いわくつきの人物らしい。

孟光字孝裕、河南洛陽人、漢太尉孟郁之族。
漢書曰、郁、中常侍孟賁之弟。
(『三国志』巻四十二、孟光伝)


この「孟郁」と同一人物の可能性が高く、その孟郁は中常侍(すなわち宦官)の孟賁の弟なのだそうだ。


つまり、宦官の親族が三公になっているという事である。先に唐衡の弟の唐珍が三公になったという前例もある。



多くの官僚や予備軍が「党人」として処分され、公職追放となっている時代なので、宦官との縁故で出世した人物が多くなっているのかもしれない。