後漢末の海賊王

靈帝初、烏桓大人上谷有難樓者、衆九千餘落、遼西有丘力居者、衆五千餘落、皆自稱王、又遼東蘇僕延、衆眾千餘落、自稱峭王、右北平烏延、衆八百餘落、自稱汗魯王。並勇建而多計策。
中平四年、前中山太守張純畔、入丘力居衆中、自號彌天安定王、遂為諸郡烏桓元帥、寇掠青・徐・幽・冀四州。五年、以劉虞為幽州牧、虞購募斬純首、北州乃定。
(『後漢書』列伝第八十、烏桓伝)


後漢末に幽州で反乱を起こした張純は遼西郡の烏桓(烏丸)丘力居と合流した。



張純と丘力居は青州・徐州・幽州・冀州を攻め略奪を働いたという。






彼らは遼西郡に本拠があったと考えられるが、なんと徐州にまで足を伸ばしていたというではないか。




彼ら烏丸が騎馬に優れた集団だとしても、流石に非常識な移動距離ではなかろうか。





だがこれら4州を考えてみると、どれも海沿いの州である。



もしや烏丸たちは海路で侵攻していたのではなかろうか。



つまり、丘力居は山賊ではなく海賊だったのではないか、ということである。






丘力居は海賊王!(もしかしたら)