甘徳

甘氏四七法一卷、甘徳。
(『新唐書』巻五十九、芸文志三、天文類)

甘徳長柳占夢二十卷。
(『漢書』巻三十、芸文志、術数略、雑占)

其諸侯之史、則魯有梓慎、晉有卜偃、鄭有裨竈、宋有子韋、齊有甘徳、楚有唐昧、趙有尹皋、魏有石申夫、皆掌著天文、各論圖驗。其巫咸・甘・石之説、後代所宗。
(『晋書』巻十一、天文志上)

春秋か戦国の時代の占術師に、「甘徳」なる者がいたらしい。


張耳敗走、念諸侯無可歸者曰「漢王與我有舊故、而項羽又彊、立我、我欲之楚。」甘公曰「漢王之入關、五星聚東井。東井者、秦分也。先至必霸。楚雖彊、後必屬漢。」故耳走漢。
【注】
集解、文穎曰「善説星者甘氏也。」
索隱、天官書云齊甘公、藝文志云楚有甘公、齊楚不同。劉歆七略云「字逢、甘徳」。志林云「甘公一名徳」。
(『史記』巻八十九、張耳陳余列伝)


どうやら、この「甘徳」は張耳に劉邦への帰順を勧めた「甘公」と解釈されているらしい。



張耳へのアドバイスが完璧だったことが、この世界における甘氏説の隆盛を生んだのかもしれない。

うらない太守

archer0921.hatenablog.com




ふと、このような記事を目にした。



『武陵太守星伝』(『荊州占』)、後漢荊州の武陵太守劉叡なる者の作であるそうな。




劉表期の武陵太守として記録があるのは劉先か。

零陵先賢傳曰、(劉)先字始宗、博學彊記、尤好黄老言、明習漢家典故。為劉表別駕、奉章詣許、見太祖。・・・(中略)・・・拝先武陵太守。荊州平、先始為漢尚書、後為魏國尚書令。 
(『三国志』巻六、劉表伝注引『零陵先賢伝』)


劉先は博学強記で黄老を好み、漢の典故にも詳しかったのだとか。




劉叡=劉先でも経歴的にはおかしくないようにも思える(同一人物だという証拠があるわけではない)し、もちろん別人でも別におかしくはない。




別人なら別人で、当時の武陵太守は劉叡・劉先とそれなりの知識人が次々就任したことになるので、それはそれでちょっと面白い。




何より、『三国志』や注では特に触れられている形跡のない占術師の太守というロマンある存在がいたという事が興味深いではないか。

何の器か

大宛之跡、見自張騫。張騫、漢中人。建元中為郎。
是時天子問匈奴降者、皆言匈奴月氏王、以其頭為飲器、月氏遁逃而常怨仇匈奴、無與共撃之。
【注】
集解、韋昭曰「飲器、椑榼也。單于以月氏王頭為飲器。」晉灼曰「飲器、虎子之屬也。或曰飲酒器也。」
索隱、椑音白迷反。榼音苦盍反。案、謂今之偏榼也。
(『史記』巻一百二十三、大宛列伝)

匈奴単于月氏の王を殺すと、王の頭蓋骨を「飲器」としたそうだが、この「飲器」は「虎子」のことだとする説がある。



つまり月氏王の頭蓋骨は「おまる」にされたということだ。



まあ、字義からしても意味合いからしても普通に「杯」と考える方が普通だと思うが、「人の頭で酒を飲むなんて考えられない」みたいな感覚がそういう解釈を生んだか?




ところでこいつは私の虎子さ

續漢志曰「侍中、比二千石、無員。」漢官儀曰「侍中、左蟬右貂、本秦丞相史、往來殿内、故謂之侍中。分掌乗輿服物、下至褻器虎子之屬。武帝時、孔安國為侍中、以其儒者、特聽掌御唾壺、朝廷榮之。至東京時、屬少府、亦無員。駕出則一人負傳國璽、操斬蛇劒、參乗。與中官倶止禁中。」
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀注)


漢の侍中はもともとは皇帝の「虎子」などの身の回りのモノを扱う仕事だったという。



「虎子」というのは何かと言えば、「おまる」という意味が現代日本でも残っている。紀元前頃から使われていた言葉なのである。



上記引用において、侍中になった儒者孔安国が痰壺係になったのを栄誉だと言われたという話が続いているあたりからも、「虎子」がそういう意味であることが察せられるだろう。



二子(淩)烈・封、年各數歳、(孫)權内養於宮、愛待與諸子同。賓客進見、呼示之曰「此吾虎子也。」及八九歳、令葛光教之讀書、十日一令乗馬、追録統功、封烈亭侯、還其故兵。
(『三国志』巻五十五、淩統伝)


ところで、孫権は若くして死んだ功臣淩統の遺児たちを養育し、客に対して「これは私の虎子である」と言っていたのだそうだ。



えっ・・・。



そ、孫権さん・・・。その子たちを・・・。




これ以上は品位を疑われかねないので、ここでは言わないでおこう。




呉と魏の間の晋

呉將晉宗叛歸魏、魏以宗為蘄春太守、去江數百里、數為寇害。(孫)權使(胡)綜與賀齊輕行掩襲、生虜得宗、加建武中郎將。
(『三国志』巻六十二、胡綜伝)


三国呉には「晋宗」という将がいて、魏に降った。



呉は晋宗を攻撃して生け捕りにした。



「晋」姓の将軍が呉と魏の間をふらふらしていたというのは、なかなかに面白い状況だ。



まあそれだけだが。