ひとこと(売官と隠遁)

そういえば曹操袁紹も途中で官に就かず隠遁しているが、袁紹は確実に高額な売官となる太守になる前から隠遁していて、曹操は一度太守級に赴任していながら2回目で赴任せず隠遁、という違いがあるんだな。



袁紹は服喪中に売官が始まったために服喪が明けても隠遁を続けたのかもしれない。



復帰したのが大将軍何進の掾だったというのも、掾は売官の対象外で、「銅臭」の誹りを受けないから、ということなのかもな・・・。


そして売官導入者董氏と対立する何進の腹心として働くというのも、袁紹が売官に否定的だったから、ということかも。



あと袁紹曹操も西園八校尉になるのは、売官のメッカ西園の官は売官の対象ではないからかもなぁ。太守などと違って収奪できる対象が無いから、ここでも売官を原則にしてしまうと「元を取る」ために汚職と横領が西園軍内にも蔓延してしまい、軍としての機能に支障をきたしてしまう。

隠遁の真実

刺史・二千石及茂才孝廉遷除、皆責助軍修宮錢、大郡至二三千萬、餘各有差。當之官者、皆先至西園諧價、然後得去。有錢不畢者、或至自殺。其守清者、乞不之官、皆迫遣之。
(『後漢書』列伝第六十八、宦者列伝、張讓)


かの後漢末売官では、太守(二千石)や刺史になる時や孝廉・茂才に推挙される際に「軍を助け、宮殿を修繕するための金」を要求された。


つまり実質的にそれなりの金を積まないと仕官もままならず、その金が用意できない、または出したくない場合は自殺するか仕官を諦めるかしかなかったらしい。



おそらく、その金を出さない場合には皇帝さんサイドから圧力がかかり、下手すると何らかの罪に問われるということなのだろう。




この時期に仕官せず隠遁した者は、財政的にこの金を出せなかったか、(金で官を買い、苛斂誅求をよしとした、という評判が嫌で)出せるが出したくなかった者が少なくなかったのだろう。



そして、前者は特に名誉ではないが後者は清廉さをアピールできる要素になるので、本当は金が無かっただけでも世間的には「あえて仕官しない」と主張していた者もいたのではなかろうか。



特に、最初は明らかに売官に応じていたのに後から辞退するような場合は、本来は売官を拒絶していなかったわけだから、財政的な問題という可能性が高そうである。

ひとこと(曹氏親子の資金繰り)

曹操が済南相になったのは黄巾の乱後なので中平2年ころだろうか。



当時は一般に3年で異動だったはずなので、東郡太守に任命されたのも3年後だろうか。



とすれば中平5年ころになる。この中平5年というのは父曹嵩が大司農から太尉に昇進した年である。


この曹嵩の太尉就任には1億銭を要したとされており(『後漢書』宦者列伝)、これは相場よりも高いものだったらしい(『後漢書』崔寔伝によれば「銅臭」崔烈は500万銭だった)。



やはり、これは曹嵩の太尉就任のための1億銭を用意するのに手いっぱいとなって、曹操の太守昇進に要する銭が用意できず、赴任できなかった、ということだったのでは・・・?

曹操済南相時代

光和末、黄巾起。拝騎都尉、討潁川賊。遷為濟南相、國有十餘縣、長吏多阿附貴戚、贓汚狼藉、於是奏免其八、禁斷淫祀、姦宄逃竄、郡界肅然。
久之、徴還為東郡太守、不就、稱疾歸郷里。
(『三国志』巻一、武帝紀)

曹操黄巾の乱の後に済南相となり、そこで汚職官吏の追放や淫祀(劉盆子の件でも有名な城陽景王信仰)の根絶といった革新的な政治を行ったが、次の東郡太守は赴任せずに病気と称して郷里に戻ったのだという。



注の『魏書』では当時の朝廷の権臣たちに逆らっていたために身を守る意図であったという風に説明されているが、一太守(相)が数年でそこまで急激に狙われるようになるものだろうか、という疑問もある。




ここのところの記事で言ってきたように、当時が売官時代だったことを踏まえると、最初の済南相になる時に支払う金は用意できたが、東郡太守になる時の分は用意できなかった、という話とも考えられるのではなかろうか。



おそらく、本来なら最初の赴任先である済南で金を貯め、異動時の分の資金を用意するのが通常だったのではないだろうか。


だが、曹操は済南で汚職一掃を試みた、ということは、これまでなら汚職の一環で長官の懐にも入っていた金が、この時の曹操には入っていなかったのだと思う。



そこで、曹操は次の昇進先(相から太守は通常は昇進である)への異動を資金ショートにより断念することになったのではないか。



政治に意欲があり、改革、浄化を志向するような官僚ほど苦しみ、出世できないという構造が当時の売官にはあったのかもしれない。



下野時代の曹操が皇帝すげ替えのクーデター計画に誘われたという話も、そんな割を食った曹操ならば、このイカレた時代をどうにかするという真面目な想いを共有できるのではないか、という首謀者たちの期待感からだったのかもしれない。