迷惑系君主

魏書曰、帝生數歳而有岐嶷之姿、武皇帝異之曰「我基於爾三世矣。」
(『三国志』巻三、明帝紀注引『魏書』)


曹叡こと烈祖様、生まれて数年、ということはおそらくは建安13年の赤壁以前の頃、祖父に当たる曹操から高く評価されたという。



素直に考えたら、烈祖様の父に当たる曹丕が後継者となり、烈祖様がその後継者になるという前提があるからこそ、烈祖様に高評価を与えた、と誰もが考えるのだろう。


(曹)沖仁愛識達、皆此類也。凡應罪戮、而為沖微所辨理、頼以濟宥者、前後數十。太祖數對羣臣稱述、有欲傳後意。
年十三、建安十三年疾病、太祖親為請命。及亡、哀甚。
(『三国志』巻二十、鄧哀王沖伝)


かの有名な曹沖、彼が曹操から高く評価され、後継者にしようとしていると思われたのも、おそらくは建安13年の赤壁以前の頃。



めっちゃ移り気・・・?



どちらが先だったのか分からないが、烈祖様を後継者の後継者にと考えるのと、曹沖を後継者にと考えるのは両立しない。



周囲から見れば、曹操は各方面に後継者への望みを抱かせてしまう、とんでもなく思わせぶりで迷惑な主君なのではなかろうか?



曹操はもしかすると後継者にしようとはあまり思わずに烈祖様を気軽に評価しただけかもしれないが、それはそれで曹丕サイド、烈祖様サイドに無用に希望を与えてしまう、やはりはた迷惑な主君ではなかろうか?