曹操の妻と子と孫について一考

最初に断わっておくが、今から書くことは推測というか憶測であって根拠は無いに等しい。



ただ、そういう風に考えてもいいんじゃないか、面白いんじゃないか、ということである。




豐愍王昂字子脩。弱冠舉孝廉。隨太祖南征、為張繡所害。無子。
黄初二年追封、諡曰豐悼公。三年、以樊安公均子琬奉昂後、封中都公。其年徙封長子公。五年、追加昂號曰豐悼王。
太和三年改昂諡曰愍王。
嘉平六年、以琬襲昂爵為豐王。
(『三国志』巻二十、豊愍王昂伝)

先日ちょっと記事でネタにした曹操の劉夫人が生んだ子、曹昂



彼は曹操の長男として知られ、上記引用の通り曹丕の時代に「豊悼王」、続く烈祖様の時代に「豊愍王」と追尊され、後継者ということになっていた甥曹琬が「豊王」となった。つまり曹昂の領土を継いだ、という体である。



相殤王鑠、早薨。
太和三年追封諡。青龍元年、子愍王潛嗣、其年薨。
(『三国志』巻二十、相殤王鑠伝)

同じく劉夫人が生んだ子、曹鑠



彼はおそらくは曹昂に次ぐ曹操の次男(たぶん曹丕よりも年上)であろう。



彼もまた同母兄曹昂と同じように「相殤王」と追尊を受け、息子の曹潜が「相王」となった。








気付いているかもしれないが、曹鑠は追尊の時期が曹昂と全然違う。


伝に書かれている限りでは、曹丕時代には何の追尊も受けていないし、ついでに言うと忘れ形見の息子曹潜もずっと無位無官であったかのようである。



この曹潜は、おそらく烈祖様こと曹叡あたりよりも年上だろうと思われ、曹操の最初の内孫じゃないかと疑われる。






この曹昂曹鑠の死後の処遇については、http://hosokawa18.exblog.jp/23686872/で指摘されているように魏王朝の宗室封建の中でも厚遇、特別扱いに属するのだと思う。



ただ、曹鑠への追尊の遅さと、忘れ形見曹潜に列侯も与えられないままだったことについては、厚遇とも捉えにくい、なかなか不思議な感じのする扱いだったように見えてくる。




曹潜が建安初期(曹鑠が死去していたであろう頃)には生まれていたとすると、曹丕が皇帝になった頃には二十代後半から三十代、烈祖様の時代には四十代である。




曹操の初孫」はその間どんな人生を歩んでいたのだろうか?





封建が遅い事にも何か色々と事情があったかもしれない(本人の能力や人格とか)*1ので一概には言えないが、飼い殺しにも見えないこともない。





ただ、皇帝の子などが封建されずにいる理由としては、「後継者候補だから」というものもある。



封建されるというのは、皇帝のお膝元から外に出されて後継者争いから脱落することを意味する場合もあるのである(後継ぎは父の爵位を受け継ぐので独自の爵位を持たない)。



曹潜は、「曹操最初の正妻の子の忘れ形見」という一番「嫡統」と呼ぶにふさわしい血統ゆえに、曹操曹丕の時代には後継者候補として扱われていた、などという可能性もあるのだろうか、もしかして。




*1:曹操の子の封建などについてはhttp://d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20110506/1304616906などが参考になるのではないだろうか。