人生80年

朱建平、沛國人也。善相術、於閭巷之間、效驗非一。
太祖為魏公、聞之、召為郎。
文帝為五官將、坐上會客三十餘人、文帝問己年壽、又令徧相衆賓。建平曰「將軍當壽八十、至四十時當有小厄、願謹護之。」謂夏侯威曰「君四十九位為州牧、而當有厄、厄若得過、可年至七十、致位公輔。」謂應璩曰「君六十二位為常伯、而當有厄、先此一年、當獨見一白狗、而旁人不見也。」謂曹彪曰「君據藩國、至五十七當厄於兵、宜善防之。
(『三国志』巻二十九、方技伝、朱建平)


朱建平という人相見は、どうもただの人相見というよりは普通に予言者と言う感じであるが、後の魏の文帝曹丕に言われて曹丕とその愉快な仲間たちの今後や寿命を言うことになった。



それによると曹丕は「寿命は八十になるはずですが、四十の時に少し厄年になるから、くれぐれもご自愛ください」との事で、他にも夏侯威(夏侯淵の子)、応璩(風俗通先生こと応奉の甥)、曹彪(曹操の子)といった著名人たちの寿命も占った。




文帝黄初七年、年四十、病困、謂左右曰「建平所言八十、謂晝夜也、吾其決矣。」頃之、果崩。
夏侯威為兗州刺史、年四十九、十二月上旬得疾、念建平之言、自分必死、豫作遺令及送喪之備、咸使素辦。至下旬轉差、垂以平復。三十日日昃、請紀綱大吏設酒、曰「吾所苦漸平、明日雞鳴、年便五十、建平之戒、真必過矣。」威罷客之後、合瞑疾動、夜半遂卒。
璩六十一為侍中、直省内、欻見白狗、問之衆人、悉無見者。於是數聚會、并急游觀田里、飲宴自娛、過期一年、六十三卒。
曹彪封楚王、年五十七、坐與王淩通謀、賜死。
(『三国志』巻二十九、方技伝、朱建平)


ご存知の方も多いだろうが、文帝曹丕は40歳で病気となった。危篤の床で「朱建平の言っていた八十とは、昼夜合わせて八十ということだったのだ」などと言ったのだとか。




だが、夏侯威たちの件ではいずれも昼夜それぞれカウントなどしていない。



それに、朱建平は「40歳を乗り切れれば80歳の寿命を全うできる」という主旨で言っているように思う。


となると、朱建平の予言を正しいものとするなら、曹丕は40歳の時の厄年を乗り切れなかった、朱建平がせっかく言ってくれたように養生しなかったからこうなった、ということなのではないか。



とすると、曹丕の臨終時の発言は、朱建平は正しかった、でも自分も問題は無かったのだ、これが寿命なのだから仕方ない、という視点での発言なのではないだろうか。





曹丕としては、本当なら80歳まで生きられたかもしれない、朱建平の言う通りにしていれば良かった、という悔いを残した状態で死にたくはなかったのかも。