反対の理由

或說太祖「宜復古置九州、則冀州所制者廣大、天下服矣。」太祖將從之、(荀)彧言曰「若是、則冀州當得河東・馮翊・扶風・西河・幽・并之地、所奪者衆。前日公破袁尚、禽審配、海内震駭、必人人自恐不得保其土地、守其兵衆也。今使分屬冀州、將皆動心。且人多説關右諸將以閉關之計。今聞此、以為必以次見奪。一旦生變、雖有守善者、轉相脅為非、則袁尚得寬其死、而袁譚懷貳、劉表遂保江・漢之間、天下未易圖也。願公急引兵先定河北、然後修復舊京、南臨荊州、責貢之不入、則天下咸知公意、人人自安。天下大定、乃議古制、此社稷長久之利也。」太祖遂寢九州議。
(『三国志』巻十、荀彧伝)


三国志』荀彧伝によると、袁尚を討った後に「九州」制を復活して冀州を拡大しようという議論があったらしい。冀州の牧はご存じ曹操である。



これに荀彧は「それをやったら袁譚劉表や関中の諸将が警戒し離反する」ということで反対し、曹操も荀彧に従った。



その後、荀彧死後の建安18年になって結局この「九州」制が行われているのだが、よく考えるとこの時には荀彧が挙げた不安要素は全部滅んでいる。



荀彧が死んだからこそこの法案は通ったのかもしれないが、仮に荀彧が生きていたとしても、反対したときの理由がほぼ無くなっていた建安18年頃であれば、もはや反対できなかった(しなかった)のかもしれない。