魏公になるということ

以前、こういう記事を書いていた。

建安十七年の魏郡
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140410/1397058012

建安十七年の政治的決着
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20140411/1397143888

荀紣の命とりになったと言われる曹操の魏公への封建問題。




だが、荀紣が健在の頃、既に魏郡を大幅に拡大するという詔が出ている。



なぜ拡大するかといえば、それはもうどう考えても曹操をそこの君主にするため以外は無いだろう。




つまり、荀紣曹操が「魏郡の君主(公)」となることまでは了解していたと考えられるのである。





おそらくだが、荀紣曹操らの意見の相違は「魏郡のみの公にするか」「魏郡含む巨大な領土の公にするか」という点にあったのだろう。




「魏公」となることそのものは、荀紣も反対していなかった、と言い換えることもできる。





預言が先か封建が先か
http://d.hatena.ne.jp/T_S/20160103/1451749326

さて、この時「魏」を国号とすること=魏郡を領土とすることは単なる地盤だけでは済まない意味を持っていたのではないか、と数日前に指摘したところだ。



荀紣がもし曹操に皇帝になってほしくないなら、魏郡の領主となること自体に反対しなければいけないところであろう。



だが実際には、荀紣は魏郡拡大命令という事実上の曹操受け入れ準備を了承しているわけである。



荀紣の願うところがどちらであったのか、ここからもうかがい知ることができるかもしれない。