烈祖様の先人

景初元年春正月壬辰、山茌縣言黄龍見。於是有司奏、以為魏得地統、宜以建丑之月為正。
三月、定暦改年為孟夏四月。服色尚黄、犧牲用白、戎事乗鄢首白馬、建大赤之旂、朝會建大白之旗。改太和暦曰景初暦。
(『三国志』巻三、明帝紀

魏の明帝曹叡様こと烈祖様は暦を改め、それまでの3月を4月とする、と宣言した。




これは烈祖様が死ぬとすぐに撤回されているのだが、実は烈祖様より前にも同じ事を試みた人物がいる。




戊辰、(王)莽至高廟拜受金匱神嬗。御王冠、謁太后、還坐未央宮前殿、下書曰「・・・(中略)・・・以十二月朔癸酉為建國元年正月之朔、以雞鳴為時。服色配徳上黄、犧牲應正用白、使節之旄旛皆純黄、其署曰『新使五威節』、以承皇天上帝威命也。」
(『漢書』巻九十九上、王莽伝上)

王莽は皇帝に即位すると、即位した月である12月を元年正月という事にした。つまり、烈祖様と同じ措置である。





もちろん、烈祖様は王莽にあこがれて真似をしたというのではなく、火徳の漢王朝を継ぐ土徳の王朝が使う暦はそうあるべきだ、という思想が王莽の時にも烈祖様の時にも存在していた、という事だろう。