前王朝の諸侯王

黄初元年十一月癸酉、以河内之山陽邑萬戸奉漢帝為山陽公、行漢正朔、以天子之禮郊祭、上書不稱臣、京都有事于太廟、致胙。封公之四子為列侯。・・・(中略)・・・以漢諸侯王為崇徳侯、列侯為關中侯。
(『三国志』巻二、文帝紀、黄初元年十一月)

丁卯、遣太僕劉原告于太廟。封魏帝為陳留王、邑萬戸、居於鄴宮。魏氏諸王皆為縣侯。
(『晋書』巻三、武帝紀、泰始元年十二月)

漢から魏への王朝交代時に、旧王朝漢の王は「崇徳侯」となったという。これはつまり通常の列侯ではなく、列侯未満の「名号侯」なのだろう。



一方、魏から晋への王朝交代時に、旧王朝魏の王は「県侯」となったという。これは以前の列侯と同様の存在で、当時の五等爵における侯を意味しているのだろう。




つまり、漢の時の諸侯王の地位は魏になってかなりランクダウンしたのに対し、魏の時の諸侯王の地位はそこまでダウンしていないのではないか、ということになると思う。



魏の諸侯王はもともと一県程度の王だった時期もあるので、晋においても県侯なのだから領土面でそこまで下がっていないことになるし、実のところ晋になって魏の諸侯王に対する軟禁が解かれたらしいので、彼らの生活環境は晋になってマシになった可能性もある。




どちらが上とかいった話ではないが、この違いは興味深いところである。