陳留王断絶

(咸和元年)冬十月、封魏武帝玄孫曹勱為陳留王、以紹魏。
(『晋書』巻七、成帝紀、咸和元年十月)

東晋においては、元帝から3代目の成帝の時になって魏武帝の玄孫曹勱なる者が魏を継ぐものとして陳留王にされたという。



この封建が普通の相続によるものならわざわざ「以紹魏」と書かなそうだし、それ以降の例では「陳留王世子」が陳留王になったとされているので、そう書かれていないこの曹勱は東晋おける陳留王初代ではなかろうか。




言い換えると、西晋における陳留王曹奐の嫡統は西晋の大乱の中で何らかの形で失われ、少なくとも当主や正当なる後継者が東晋に来ることはできなかったのだろう。一時期、陳留王は断絶状態にあったのだ。


東晋の中で曹氏の子孫を探し、上記の曹勱をやっと発見した、というところか。




つまり、西晋における永嘉の大乱などの戦乱は、例えばあの劉禅の子孫安楽公などが悲惨な目に遭ったように、曹魏の皇帝の血統である陳留王にも災いを振りまいていたのである。