運命を仕組まれた王家

衛公・宋公。
本注曰、建武二年、封周後姫常為周承休公、五年、封殷後孔安為殷紹嘉公。十三年、改常為衛公、安為宋公、以為漢賓、在三公上。
【注】
五經通義「二王之後不考功、有誅無絶。」
(『続漢書』志第二十八、百官志五)

漢は周王の末裔を「衛公」、殷王の末裔(何故か孔丘先生の末裔が選ばれている)を「宋公」として諸侯として扱っていた。



前の王朝とその前の王朝の子孫を諸侯とすることになっていて、罪があっても断絶させない、とされていたらしい。




魏においては周王の末裔と漢皇帝の末裔がそれに当たるので、漢の献帝とその子孫の「山陽公」がこのポジションだったことになる。



晋においては漢皇帝の末裔と魏皇帝の末裔がそれに当たるので、魏の元帝とその子孫の「陳留王」がこのポジションだったことになる。




思うに、こういった習わしがあった以上、山陽公も陳留王も魏や晋の世においては、仮に罪があって処罰されたとか、直系子孫がおらず断絶した、といった場合であっても、国自体が断絶することはなく、代わりが用意されたということなのだろう。




つまり、この時代の山陽公や陳留王とは、王公の座にある者の才覚でも人徳でもなく、制度のみによって存続し続けることを運命づけられた存在だった、ということらしい。