『漢書』文帝紀を読んでみよう:その10

その9(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20171011/1507649389)の続き。




六年冬十月、桃李華。
十一月、淮南王長謀反、廢遷蜀嚴道、死雍。
七年冬十月、令列侯太夫人・夫人・諸侯王子及吏二千石無得擅徴捕。
夏四月、赦天下。
六月癸酉、未央宮東闕罘罳災。
八年夏、封淮南窅王長子四人為列侯。
有長星出于東方。
九年春、大旱。
十年冬、行幸甘泉。
將軍薄昭死。
(『漢書』巻四、文帝紀

文帝前6年から前10年まで。



淮南窅王長とは、文帝の兄弟(高祖の皇子)で最後に残った劉長のこと。


六年、令男子但等七十人與棘蒲侯柴武太子奇謀、以輂車四十乘反谷口、令人使閩越・匈奴。事覺、治之、使使召淮南王。淮南王至長安
(『史記』巻百十八、淮南衡山列伝)


劉長は功臣で呂后の寵臣だった審食其を殺害しながら文帝に許された人物で、増長して反乱を企むに至ったという。



劉長は蜀の更に辺境に配流されることとなったが、その道中で絶食して自ら死を選んだ。



なお翌年に列侯になった王子たちの内の一人が淮南王安、あの『淮南子』の劉安である。





将軍薄昭というのは文帝の外戚(母薄太后の弟)である。漢の使者を殺害したため文帝に自殺を強いられたとされている。




六年、有司言淮南王長廢先帝法、不聽天子詔、居處毋度、出入擬於天子、擅為法令、與棘蒲侯太子奇謀反、遣人使閩越及匈奴、發其兵、欲以危宗廟社稷
羣臣議皆曰「長當弃市」、帝不忍致法於王、赦其罪,廢勿王。羣臣請處王蜀嚴道・邛都帝許之。
長未到處所、行病死、上憐之。
後十六年、追尊淮南王長謚為窅王、立其子三人為淮南王・衡山王・廬江王。
(『史記』巻十、孝文本紀)

史記』孝文本紀は文帝前6年から前10年までの間の記事としてこの劉長の事件のみを記す。