『後漢書』孝献帝紀を読んでみよう:その20

その19(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/05/23/000100)の続き。





二年春、袁術自稱天子。
三月、袁紹自為大將軍。
夏五月、蝗。
秋九月、漢水溢。
是歳飢、江淮閒民相食。
袁術殺陳王寵。
孫策遣使奉貢。
(『後漢書』紀第九、孝献帝紀)

建安2年。



袁術、皇帝になる。


建安二年、因河内張炯符命、遂果僭號、自稱「仲家」。以九江太守為淮南尹、置公卿百官、郊祀天地。乃遣使以竊號告呂布、并為子娉布女。布執(袁)術使送許。術大怒、遣其將張勳・橋蕤攻布、大敗而還。術又率兵撃陳國、誘殺其王寵及相駱俊、曹操乃自征之。
(『後漢書』列伝第六十五、袁術伝)

袁術は興平2年に献帝が散々な目に遭ったあたりから自分が皇帝になる事を考えだしていたとされる。


臣下に戦闘で殺されかける献帝に劉氏の世の終焉が見えたのだろう。



あるいは、自分の手による保護がならなかった事も一因かもしれない。



寵善弩射、十發十中、中皆同處。中平中、黄巾賊起、郡縣皆弃城走、寵有彊弩數千張、出軍都亭。國人素聞王善射、不敢反叛、故陳獨得完、百姓歸之者衆十餘萬人。
及獻帝初、義兵起、寵率衆屯陽夏、自稱輔漢大將軍。國相會稽駱俊素有威恩、時天下飢荒、鄰郡人多歸就之、俊傾資賑贍、並得全活。後袁術求糧於陳而俊拒絕之、術忿恚、遣客詐殺俊及寵、陳由是破敗。
(『後漢書』列伝第四十、陳王寵伝)

陳王劉寵、袁術に殺される。


陳王寵は黄巾蜂起の前から強大な軍備を備え、黄巾蜂起の際にも国を全うし、その後も荒廃した中原にあって陳国の宰相は近隣の飢えた民に施しをしていたという。


この国、一体どこにそんな財力・物資があったのやら。




孫策が使者を送ってきたというのは、許の献帝曹操に逆らわないという意思表示であると共に、それまでは密な関係にあった袁術とは袂を分かつ、という表明でもあったのだろう。