『晋書』宣帝紀を読んでみよう:その16

その15(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/07/08/000100)の続き。





先是、詔帝便道鎮關中。及次白屋、有詔召帝、三日之間、詔書五至。
手詔曰「間側息望到、到便直排閤入、視吾面。」帝大遽、乃乗追鋒車晝夜兼行、自白屋四百餘里、一宿而至。引入嘉福殿臥内、升御牀。帝流涕問疾、天子執帝手、目齊王曰「以後事相託。死乃復可忍、吾忍死待君、得相見、無所復恨矣。」與大將軍曹爽並受遺詔輔少主。
(『晋書』巻一、宣帝紀

烈祖様、臨終。



司馬懿は当初は関中への出向を命じられていながら、途中で都へ戻るよう勅命が下った。「3日間に5回詔が届いた」というあたり、相当に切迫した様子が伺える。司馬懿も昼夜兼行で都へ向かっている。

三年春正月丁亥、太尉宣王還至河内、帝驛馬召到、引入臥内、執其手謂曰「吾疾甚、以後事屬君、君其與(曹)爽輔少子。吾得見君、無所恨!」宣王頓首流涕。即日帝崩于嘉福殿、時年三十六。
(『三国志』巻三、明帝紀


烈祖様は駆けつけた司馬懿へ「後の事は君に託す。曹爽と共に我が子を助けてくれ」と言い残し、その日の内に世を去った、という事になっている。


漢晉春秋曰、帝以燕王宇為大將軍、使與領軍將軍夏侯獻・武衛將軍曹爽・屯騎校尉曹肇・驍騎將軍秦朗等對輔政。中書監劉放・令孫資久專權寵、為朗等素所不善、懼有後害、陰圖間之、而宇常在帝側、故未得有言。
甲申、帝氣微、宇下殿呼曹肇有所議、未還、而帝少閒、惟曹爽獨在。放知之、呼資與謀。資曰「不可動也。」放曰「倶入鼎鑊、何不可之有?」乃突前見帝、垂泣曰「陛下氣微、若有不諱、將以天下付誰?」帝曰「卿不聞用燕王耶?」放曰「陛下忘先帝詔敕、藩王不得輔政。且陛下方病、而曹肇・秦朗等便與才人侍疾者言戲。燕王擁兵南面、不聽臣等入、此即豎刁・趙高也。今皇太子幼弱、未能統政、外有彊暴之寇、内有勞怨之民、陛下不遠慮存亡、而近係恩舊。委祖宗之業、付二三凡士、寢疾數日、外内壅隔、社稷危殆、而己不知、此臣等所以痛心也。」帝得放言、大怒曰「誰可任者?」放・資乃舉爽代宇、又白「宜詔司馬宣王使相參」、帝從之。
放・資出、 曹肇入、泣涕固諫、帝使肇敕停。肇出戸、放・資趨而往、復説止帝、帝又從其言。放曰「宜為手詔。」帝曰「我困篤、不能。」放即上牀、執帝手強作之、遂齎出、大言曰「有詔免燕王宇等官、不得停省中。」於是宇・肇・獻・朗相與泣而歸第。
(『三国志』巻三、明帝紀注引『漢晋春秋』)

なお、烈祖様は重態になると当初は燕王曹宇(魏武の子)や曹肇(曹休の子)、秦朗(烈祖様のマブダチ)らを新帝の補佐にしようとしていたが、側近の劉放・孫資が秦朗らと不仲であった事から、曹爽を除いて排除し、代わりに司馬懿を補佐に当てようと画策したという話も伝わる。


劉放・孫資は曹肇ら放逐の詔を臨終の烈祖様に無理やり書かせたとまで言われている。



そんな状態の烈祖様なので、司馬懿が来るまで本当に意識を保っていたのやら、と勘ぐりたくもなる。


魏略曰、帝既從劉放計、召司馬宣王、自力為詔、既封、顧呼宮中常所給使者曰「辟邪來!汝持我此詔授太尉也。」辟邪馳去。先是、燕王為帝畫計、以為關中事重、宜便道遣宣王從河内西還、事以施行。宣王得前詔、斯須復得後手筆、疑京師有變、乃馳到、入見帝。勞問訖、乃召齊・秦二王以示宣王、別指齊王謂宣王曰「此是也、君諦視之、勿誤也!」又教齊王令前抱宣王頸。
(『三国志』巻三、明帝紀注引『魏略』)


数日のうちに命令が変わった事に司馬懿は疑問を抱き、都で異変があったと感じた、という。ごもっともであろう。




まあ、何にしても、司馬懿は臨終の烈祖様から「次はこの子である」と斉王曹芳を示され、曹爽と共に新たな皇帝の補佐役を命じられた、という事になったのである。



シチュエーション的には、斉王を後継者指名した事は司馬懿と烈祖様の寝室内にいた近臣しか知り得なかった、という事になるのだろうか?