『三国志』武帝紀を読んでみよう:その31

その30(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/05/000100)の続き。





十三年春正月、公還鄴、作玄武池以肄舟師。漢罷三公官、置丞相、御史大夫
夏六月、以公為丞相。
秋七月、公南征劉表
八月、表卒、其子琮代、屯襄陽、劉備屯樊。
九月、公到新野、琮遂降、備走夏口。公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始。乃論荊州服從之功、侯者十五人、以劉表大將文聘為江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩・鄧義等。益州劉璋始受徴役、遣兵給軍。
十二月、孫權為備攻合肥。公自江陵征備、至巴丘、遣張憙救合肥。權聞憙至、乃走。公至赤壁、與備戰、不利。於是大疫、吏士多死者、乃引軍還。備遂有荊州江南諸郡。
(『三国志』巻一、武帝紀)

魏武、丞相になる。


実際にはこの年正月に司徒趙温が罷免されて三公が魏武一人になり、6月に丞相・御史大夫が置かれるという順番。まあ出来レースってヤツだろう。



そして前年に続いて出征。荊州劉表は死に、後継者劉琮は降伏。劉備は孤立状態となる。



益州劉璋も兵を派遣して恭順の意を示す。

(劉)璋復遣別駕從事蜀郡張肅送叟兵三百人并雜御物於曹公、曹公拜肅為廣漢太守。
(『三国志』巻三十一、劉璋伝)


但し、どうやら送ったのは三百の老兵だったらしいので、形ばかりの恭順ではある。




その後の事は詳しく述べるまでもないだろう。


武帝紀だとかなり薄味な書きぶりだが、文字数やら理由やらがどうあれ、数か月までは孤立状態にあったはずの劉備荊州南部の実質的な支配者となり、荊州に進出したくても出来ないでいた孫権荊州へ進出する足掛かりを作った事には変わりない。




それにしても、このいわゆる赤壁の戦いでの結果に対しては、魏武が自ら大々的に布告した「敗戦した将は厳しく罰する」という命令はどう適用されたのだろうか?


出征前と比べ、領土を一切得られなかったというわけではない(襄陽あたりまでは占領している)ので、罰が必要では無いとされたのだろうか?


当時どう処理されたのだろう?