『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その3

その2(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/19/000100)の続き。





二年夏五月朔、日有食之。
秋七月、樂浪外夷韓・濊貊各率其屬來朝貢
八月戊寅、趙王幹薨。
甲寅、復命大將軍進爵晉公、加位相國、備禮崇錫、一如前詔。又固辭乃止。
三年春二月、青龍見于軹縣井中。
夏四月、遼東郡言肅慎國遣使重譯入貢、獻其國弓三十張、長三尺五寸、楛矢長一尺八寸、石弩三百枚、皮骨鐵雜鎧二十領、貂皮四百枚。
冬十月、蜀大將姜維寇洮陽、鎮西將軍鄧艾拒之、破維于侯和、維遁走。
是歳、詔祀故軍祭酒郭嘉於太祖廟庭。
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

景元2年、3年。




司馬昭、また晋公・相国を辞退。2年で3回目。



仲尼曰「隼來遠矣、此肅慎之矢也。昔武王克商、通道九夷百蠻、使各以其方賄來貢、使無忘職業。於是肅慎貢楛矢石砮、長尺有咫。先王欲昭其令徳、以肅慎矢分大姫、配虞胡公而封諸陳。分同姓以珍玉、展親。分異姓以遠職、使無忘服。故分陳以肅慎矢。」
(『史記』巻四十七、孔子世家)

遥か東北の異民族「粛慎」が矢などを貢いでくる、というのは周の武王の時の故事であるらしい。



今回の粛慎来朝自体は事実かもしれないが、それが特筆されるのは周の武王の時のような太平が時の為政者によってもたらされつつある、といったアピールなのだろう。


(景耀)五年、(姜)維率衆出漢侯和、為鄧艾所破、還住沓中。
維本羈旅託國、累年攻戰、功績不立、而宦官黄皓等弄權於内、右大將軍閻宇與皓協比、而皓陰欲廢維樹宇。維亦疑之。故自危懼、不復還成都
(『三国志』巻四十四、姜維伝)

蜀漢姜維が鄧艾に敗れる。姜維はこれによって成都に戻ることすら出来なくなり、軍事力を握る姜維成都の皇帝劉禅たちの間の断絶がシャレにならなくなる。蜀漢の国防上の大問題というだけでなく、姜維の行動は諸葛誕が司馬氏に反抗する直前みたいになってきているのではないか?