『三国志』陳留王奐紀を読んでみよう:その4

その3(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/20/000100)の続き。






四年春二月、復命大將軍進位爵賜一如前詔、又固辭乃止。
夏五月、詔曰「蜀、蕞爾小國、土狹民寡、而姜維虐用其衆、曾無廢志。往歳破敗之後、猶復耕種沓中、刻剝衆羌、勞役無已、民不堪命。夫兼弱攻昧、武之善經、致人而不致於人、兵家之上略。蜀所恃頼、唯維而已、因其遠離巢窟、用力為易。今使征西將軍鄧艾督帥諸軍、趣甘松・沓中以羅取維、雍州刺史諸葛緒督諸軍趣武都・高樓、首尾蹵討。若擒維、便當東西並進、掃滅巴蜀也。」又命鎮西將軍鍾會由駱谷伐蜀。
秋九月、太尉高柔薨。
冬十月甲寅、復命大將軍進位爵賜一如前詔。
癸卯、立皇后卞氏
十一月、大赦
自鄧艾・鍾會率衆伐蜀、所至輒克。
是月、蜀主劉禪詣艾降、巴蜀皆平。
十二月庚戌、以司徒鄭沖為太保。
壬子、分益州為梁州。
癸丑、特赦益州士民、復除租賦之半五年。
乙卯、以征西將軍鄧艾為太尉、鎮西將軍鍾會為司徒。
太后崩。
(『三国志』巻四、陳留王奐紀)

景元4年。



司馬昭、3年で4回目の晋公・相国辞退。




そして蜀攻め。

九月、又使天水太守王頎攻(姜)維營、隴西太守牽弘邀其前、金城太守楊欣趣甘松。鍾會分為二隊、入自斜谷、使李輔圍王含於樂城、又使部將易愷攻蔣斌於漢城。會直指陽安、護軍胡烈攻陷關城。姜維聞之、引還、王頎追敗維於彊川。維與張翼廖化合軍守劍閣、鍾會攻之。
(『晋書』巻二、文帝紀


9月頃には姜維は剣閣に入っており、つまり追い詰められつつあるという事だ。



この段階でついに司馬昭は晋公・相国・九錫を受け取る。なんだか本文では分かりにくい書き方になっているが、10月の打診は辞退していない、即ちすべて受け取ったという事なのである。




それから蜀漢の皇帝劉禅が鄧艾に降伏。まあこの辺はこれ以上言う必要もない話かもしれない。





最後、蜀攻めの最高責任者二人を三公に任命。



これは兵権を奪って中央に呼び戻すという事。素直に応じればヨシ、応じなければ敵として始末する事になる。諸葛誕の時と同様。