『三国志』高貴郷公髦紀を読んでみよう:その5

その4(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/03/11/000100)の続き。





甘露元年春正月辛丑、青龍見軹縣井中。
乙巳、沛王林薨。
夏四月庚戌、賜大將軍司馬文王兗冕之服、赤舄副焉。
丙辰、帝幸太學、問諸儒曰「聖人幽贊神明、仰觀俯察、始作八卦、後聖重之為六十四、立爻以極數、凡斯大義、罔有不備、而夏有連山、殷有歸藏、周曰周易、易之書、其故何也?」易博士淳于俊對曰「包羲因燧皇之圖而制八卦、神農演之為六十四、黄帝・堯・舜通其變、三代隨時、質文各繇其事。故易者、變易也、名曰連山、似山出内雲氣、連天地也。歸藏者、萬事莫不歸藏于其中也。」帝又曰「若使包羲因燧皇而作易、孔子何以不云燧人氏沒包羲氏作乎?」俊不能答。帝又問曰「孔子作彖・象、鄭玄作注、雖聖賢不同、其所釋經義一也。今彖・象不與經文相連、而注連之、何也?」俊對曰「鄭玄合彖・象于經者、欲使學者尋省易了也。」帝曰「若鄭玄合之、於學誠便、則孔子曷為不合以了學者乎?」俊對曰「孔子恐其與文王相亂、是以不合、此聖人以不合為謙。」帝曰「若聖人以不合為謙、則鄭玄何獨不謙邪?」俊對曰「古義弘深、聖問奧遠、非臣所能詳盡。」帝又問曰「繫辭云『黄帝・堯・舜垂衣裳而天下治』、此包羲・神農之世為無衣裳。但聖人化天下、何殊異爾邪?」俊對曰「三皇之時、人寡而禽獸衆、故取其羽皮而天下用足、及至黄帝、人衆而禽獸寡、是以作為衣裳以濟時變也。」帝又問「乾為天、而復為金、為玉、為老馬、與細物並邪?」俊對曰「聖人取象、或遠或近、近取諸物、遠則天地。」
講易畢、復命講尚書。帝問曰「鄭玄曰『稽古同天、言堯同於天也』。王肅云『堯順考古道而行之』。二義不同、何者為是?」博士庾峻對曰「先儒所執、各有乖異、臣不足以定之。然洪範稱『三人占、從二人之言』。賈・馬及肅皆以為『順考古道』。以洪範言之、肅義為長。」帝曰「仲尼言『唯天為大、唯堯則之』。堯之大美、在乎則天、順考古道、非其至也。今發篇開義以明聖徳、而舍其大、更稱其細、豈作者之意邪?」峻對曰「臣奉遵師説、未喻大義、至于折中、裁之聖思。」次及四嶽舉鯀、帝又問曰「夫大人者、與天地合其徳、與日月合其明、思無不周、明無不照。今王肅云『堯意不能明鯀、是以試用』。如此、聖人之明有所未盡邪?」峻對曰「雖聖人之弘、猶有所未盡、故禹曰『知人則哲、惟帝難之』、然卒能改授聖賢、緝熙庶績、亦所以成聖也。」帝曰「夫有始有卒、其唯聖人。若不能始、何以為聖?其言『惟帝難之』、然卒能改授、蓋謂知人、聖人所難、非不盡之言也。經云『知人則哲、能官人。』若堯疑鯀、試之九年、官人失敍、何得謂之聖哲?」峻對曰「臣竊觀經傳、聖人行事不能無失、是以堯失之四凶、周公失之二叔、仲尼失之宰予。」帝曰「堯之任鯀、九載無成、汨陳五行、民用昏墊。至於仲尼失之宰予、言行之間、輕重不同也。至于周公・管・蔡之事、亦尚書所載、皆博士所當通也。」峻對曰「此皆先賢所疑、非臣寡見所能究論。」次及「有鰥在下曰虞舜」、帝問曰「當堯之時、洪水為害、四凶在朝、宜速登賢聖濟斯民之時也。舜年在既立、聖徳光明、而久不進用、何也?」峻對曰「堯咨嗟求賢、欲遜己位、嶽曰『否徳忝帝位』。堯復使嶽揚舉仄陋、然後薦舜。薦舜之本、實由於堯、此蓋聖人欲盡衆心也。」帝曰「堯既聞舜而不登用、又時忠臣亦不進達、乃使獄揚仄陋而後薦舉、非急於用聖恤民之謂也。」峻對曰「非臣愚見所能逮及。」
於是復命講禮記。帝問曰「『太上立徳、其次務施報』。為治何由而教化各異、皆脩何政而能致于立徳、施而不報乎?」博士馬照對曰「太上立徳、謂三皇五帝之世以徳化民、其次報施、謂三王之世以禮為治也。」帝曰「二者致化薄厚不同、將主有優劣邪?時使之然乎?」照對曰「誠由時有樸文、故化有薄厚也。」
五月、鄴及上洛並言甘露降。
夏六月丙午、改元為甘露。
乙丑、青龍見元城縣界井中。
秋七月己卯、衛將軍胡遵薨。
癸未、安西將軍鄧艾大破蜀大將姜維于上邽。詔曰「兵未極武、醜虜摧破、斬首獲生、動以萬計、自頃戰克、無如此者。今遣使者犒賜將士、大會臨饗、飲宴終日、稱朕意焉。」
八月庚午、命大將軍司馬文王加號大都督、奏事不名、假黄鉞。
癸酉、以太尉司馬孚為太傅。
九月、以司徒高柔為太尉。
冬十月、以司空鄭沖為司徒、尚書左僕射盧毓為司空。
(『三国志』巻四、高貴郷公髦紀)


甘露元年。



ちなみに「甘露」という元号前漢で既出で、後に呉でも使われるという人気ぶり。





少年皇帝高貴郷公は儒学の大家たちに矛盾を突く質問を投げかけまくる。全部細かく見ていくのは今の私の手に余るのでパスしておく。



胡奮字玄威、安定臨涇人也、魏車騎將軍陰密侯遵之子也。
(『晋書』巻五十七、胡奮伝)

衛将軍胡遵は安定郡の人。息子胡奮の娘は後に司馬炎の寵姫になった。胡遵は司馬懿の指揮の元で働いた将だったようなので、このような高位に上ったのも司馬氏との密接な関係故なのだろう。


『晋書』で車騎将軍となっているのは追贈かもしれない。




鄧艾は姜維を破り、前年の敗戦から盛り返す。

(延熙)十九年春、就遷(姜)維為大將軍。更整勒戎馬、與鎮西大將軍胡濟期會上邽、濟失誓不至、故維為魏大將鄧艾所破於段谷、星散流離、死者甚衆。衆庶由是怨讟、而隴已西亦騷動不寧、維謝過引負、求自貶削、為後將軍行大將軍事。
(『三国志』巻四十四、姜維伝)

姜維の方は前年の勝利で大将軍になっていたがこの大敗で降格。王経を破った事によるアドバンテージも吹っ飛ぶ敗戦だったのだろうと思う。