『三国志』武帝紀を読んでみよう:その47

その46(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/22/000100)の続き。





二十五年春正月、至洛陽。
(孫)權撃斬(関)羽、傳其首。
庚子、王崩于洛陽、年六十六。
遺令曰「天下尚未安定、未得遵古也。葬畢、皆除服。其將兵屯戍者、皆不得離屯部。有司各率乃職。斂以時服、無藏金玉珍寶。」諡曰武王。
二月丁卯、葬高陵。
評曰、漢末、天下大亂、雄豪並起、而袁紹虎眎四州、彊盛莫敵。太祖運籌演謀、鞭撻宇内、擥申・商之法術、該韓・白之奇策、官方授材、各因其器、矯情任算、不念舊惡、終能總御皇機、克成洪業者、惟其明略最優也。抑可謂非常之人、超世之傑矣。
(『三国志』巻一、武帝紀)

関羽孫権が殺した。その首級は魏武の元へ送られてきた。



だが、魏武もそのすぐあとに死去。



死ぬ直前まで軍を率いて長安から洛陽と移動していた点と、当面最大の懸念であった関羽の死を見届けた点については流石と言いたい。




三国志』編者陳寿による「評」によれば、魏武は軍事では淮陰侯韓信や白起、法家としては申不害や韓非子になぞらえられている。



なお、「傑」という語について、『白虎通』では「禮別名記曰、五人曰茂、十人曰選、百人曰俊、千人曰英、倍英曰賢、萬人曰傑、萬傑曰聖」なる説が紹介されている。



「聖」というのは古代の定義では五帝や周の文王・武王、周公旦や孔丘先生といった人物たちであるといい、「傑」の希少価値は「聖」の一万分の一という事らしい。SRだがSSRまではいかない、みたいな所だろうか。


無論、ここで使われる「傑」が同じ解釈とは限らないが。




というわけで、『三国志武帝紀は終わり。



注を外してみると味気ない感じがある一方で、分かりやすく感じた部分もあったような気もする。