『三国志』文帝紀を読んでみよう:その1

三国志武帝紀の次は文帝紀も行ってみよう。






文皇帝諱丕、字子桓、武帝太子也。
中平四年冬、生于譙。
建安十六年、為五官中郎將・副丞相。
二十二年、立為魏太子。
太祖崩、嗣位為丞相・魏王。尊王后曰王太后
改建安二十五年為延康元年。
(『三国志』巻二、文帝紀

魏の文帝曹丕は建安22年に魏王の太子となり、魏武が死ぬと魏王と丞相の地位を継いだ。


太祖崩洛陽、(賈)逵典喪事。時鄢陵侯(曹)彰行越騎將軍、從長安來赴、問逵先王璽綬所在。逵正色曰「太子在鄴、國有儲副。先王璽綬、非君侯所宜問也。」遂奉梓宮還鄴。
(『三国志』巻十五、賈逵伝)

行前未到鄴、太祖崩洛陽、群臣拘常、以為太子即位、當須詔命。(陳)矯曰「王薨于外、天下惶懼。太子宜割哀即位、以繫遠近之望。且又愛子在側、彼此生變、則社稷危矣。」即具官備禮、一日皆辦。明旦、以王后令、策太子即位、大赦蕩然。
文帝曰「陳季弼臨大節、明略過人、信一時之俊傑也。」
(『三国志』巻二十二、陳矯伝)

曹丕が魏王になる際には、魏武の遺体がある洛陽と、曹丕がいる鄴とで、それぞれこんな騒動があったらしい。



洛陽の魏武の遺体の側では、賈逵と魏武の中子曹彰の間で魏武の璽綬を巡ってやりとりがあった。なぜ曹彰は異変の前触れとしか思えないのにも関わらず魏武の璽綬のありかを知りたがったのか。



陳矯は皇帝(献帝)の命を待つという本来の在り方を曲げてまで早急に王位に就くよう取り計らったのか。



たぶん、曹丕とその周辺は太子であってもまるで安心できなかったし、魏武の璽綬を実際に管理していた賈逵らは、実際に何らかの変事が起こりかねない状況を肌で感じていた、という事なのだろう。




魏武の築いていた政権は代替わりの前ですら重臣の謀反などがあったわけだが、代替わりによって下手をすれば全てがふっとびかねない動揺まで起こっていたらしい。



それを回避したのだから、賈逵などは特に忠臣扱いされるわけである。