『三国志』武帝紀を読んでみよう:その27

その26(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/01/001000)の続き。





秋七月、(袁)尚還救鄴、諸將皆以為「此歸師、人自為戰、不如避之」。公曰「尚從大道來、當避之。若循西山來者、此成禽耳。」尚果循西山來、臨滏水為營。夜遣兵犯圍、公逆撃破走之、遂圍其營。未合、尚懼、遣故豫州刺史陰夔及陳琳乞降、公不許、為圍益急。尚夜遁、保祁山、追撃之。其將馬延・張顗等臨陳降、衆大潰、尚走中山。盡獲其輜重、得尚印綬節鉞、使尚降人示其家、城中崩沮。
八月、審配兄子榮夜開所守城東門内兵。配逆戰、敗、生禽配、斬之、鄴定。公臨祀紹墓、哭之流涕。慰勞紹妻、還其家人寶物、賜雜繒絮、廩食之。
初、紹與公共起兵、紹問公曰「若事不輯、則方面何所可據?」公曰「足下意以為何如?」紹曰「吾南據河、北阻燕・代、兼戎狄之衆、南向以爭天下、庶可以濟乎?」公曰「吾任天下之智力、以道御之、無所不可。」
九月、令曰「河北罹袁氏之難、其令無出今年租賦。」重豪彊兼并之法、百姓喜悦。
天子以公領冀州牧、公讓還兗州
公之圍鄴也、譚略取甘陵・安平・勃海・河間。尚敗、還中山。譚攻之、尚奔故安、遂并其衆。公遺譚書、責以負約、與之絶婚、女還、然後進軍。譚懼、拔平原、走保南皮。
十二月、公入平原、略定諸縣。
(『三国志』巻一、武帝紀)

鄴、陥落。袁尚北へ。


そして袁譚は魏武から盟約違反を責められて対立、魏武にまんまと各個撃破される。



魏武はかつての友人袁紹の墓参りをし、袁紹未亡人を慰労し、家の者や財物を返してやったという。

初、曹操攻屠鄴城、袁氏婦子多見侵略、而操子丕私納袁熙妻甄氏。
(『後漢書』列伝第六十、孔融伝)


まあ、武帝紀の方で「全て返した」とは書いてないから嘘ではないな。





魏武は冀州牧となり、兗州牧の方は返上した。

劉備は後に州牧を3つ+司隷校尉まで兼任する形となったが、それに対して奥ゆかしいと言う事も出来るだろうし、兗州のこれまでの経緯を考えると「自分で管理する労力が惜しい」みたいに思っていたとも考えられるだろう。