『三国志』文帝紀を読んでみよう:その7

その6(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/30/000100)の続き。





秋七月、冀州大蝗、民饑、使尚書杜畿持節開倉廩以振之。
八月、蜀大將黄權率衆降。
九月甲午、詔曰「夫婦人與政、亂之本也。自今以後、羣臣不得奏事太后、后族之家不得當輔政之任、又不得横受茅土之爵。以此詔傳後世、若有背違,天下共誅之。」
庚子、立皇后郭氏。
賜天下男子爵人二級、鰥寡篤癃及貧不能自存者賜穀。
冬十月甲子、表首陽山東為壽陵、作終制曰「禮、國君即位為椑、存不忘亡也。昔堯葬穀林、通樹之、禹葬會稽、農不易畝、故葬於山林、則合乎山林。封樹之制、非上古也、吾無取焉。壽陵因山為體、無為封樹、無立寢殿、造園邑、通神道。夫葬也者、藏也、欲人之不得見也。骨無痛痒之知、冢非棲神之宅、禮不墓祭、欲存亡之不黷也、為棺槨足以朽骨、衣衾足以朽肉而已。故吾營此丘墟不食之地、欲使易代之後不知其處。無施葦炭、無藏金銀銅鐵、一以瓦器、合古塗車・芻靈之義。棺但漆際會三過、飯含無以珠玉、無施珠襦玉匣、諸愚俗所為也。季孫以璵璠斂、孔子歴級而救之、譬之暴骸中原。宋公厚葬、君子謂華元・樂莒不臣、以為棄君於惡。漢文帝之不發、霸陵無求也。光武之掘、原陵封樹也。霸陵之完、功在釋之。原陵之掘、罪在明帝。是釋之忠以利君、明帝愛以害親也。忠臣孝子、宜思仲尼・丘明・釋之之言、鑒華元・樂莒・明帝之戒、存於所以安君定親、使魂靈萬載無危、斯則賢聖之忠孝矣。自古及今、未有不亡之國、亦無不掘之墓也。喪亂以來、漢氏諸陵無不發掘、至乃燒取玉匣金縷、骸骨并盡、是焚如之刑、豈不重痛哉!禍由乎厚葬封樹。『桑・霍為我戒』、不亦明乎?其皇后及貴人以下、不隨王之國者、有終沒皆葬澗西、前又以表其處矣。蓋舜葬蒼梧、二妃不從、延陵葬子、遠在嬴・博、魂而有靈、無不之也、一澗之閒、不足為遠。若違今詔、妄有所變改造施、吾為戮尸地下、戮而重戮、死而重死。臣子為蔑死君父、不忠不孝、使死者有知、將不福汝。其以此詔藏之宗廟、副在尚書・祕書・三府。」
是月、孫權復叛。復郢州為荊州。帝自許昌南征、諸軍兵並進、權臨江拒守。
十一月辛丑、行幸宛。
庚申晦、日有食之。
是歳、穿靈芝池。
(『三国志』巻二、文帝紀

黄初3年後半。



曹丕は皇太后の政治関与を極力排除。また自分の皇帝陵造営を始めると共に、薄葬を厳命し後の世代にも伝えさせる。


又使呂布發諸帝陵、及公卿已下冢墓、收其珍寶。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)


その中で後漢世祖の原陵は造営した息子明帝のせいで盗掘されたと言っているが、これはもしかすると董卓による盗掘の時の事だろうか?


だとするとこの盗掘の時に董卓の側にいたであろう賈詡が、今の曹丕の三公になっている。


実際にこの盗掘を見てきた者が三公になっている皇帝の発言、物凄い説得力である。




この年、蜀漢からは黄権が降伏してきて、呉は孫権が魏から離反した。


初(孫)權外託事魏、而誠心不款。
魏乃遣侍中辛毗・尚書桓階往與盟誓、幷徴任子、權辭讓不受。
秋九月、魏乃命曹休張遼臧霸出洞口、曹仁出濡須、曹真・夏侯尚・張郃徐晃圍南郡。權遣呂範等督五軍、以舟軍拒休等、諸葛瑾潘璋・楊粲救南郡、朱桓以濡須督拒仁。
時揚・越蠻夷多未平集、内難未弭、故權卑辭上書、求自改厲、「若罪在難除、必不見置、當奉還土地民人、乞寄命交州、以終餘年。」文帝報曰「君生於擾攘之際、本有從横之志、降身奉國、以享茲祚。自君策名已來、貢獻盈路。討備之功、國朝仰成。埋而掘之、古人之所恥。朕之與君、大義已定、豈樂勞師遠臨江漢?廊廟之議、王者所不得專。三公上君過失、皆有本末。朕以不明、雖有曾母投杼之疑、猶冀言者不信、以為國福。故先遣使者犒勞、又遣尚書・侍中踐脩前言、以定任子。君遂設辭、不欲使進、議者怪之。又前都尉浩周勸君遣子、乃實朝臣交謀、以此卜君、君果有辭、外引隗囂遣子不終、内喻竇融守忠而已。世殊時異、人各有心。浩周之還、口陳指麾、益令議者發明衆嫌、終始之本、無所據仗、故遂俛仰從羣臣議。今省上事、款誠深至、心用慨然、悽愴動容。即日下詔、敕諸軍但深溝高壘、不得妄進。若君必效忠節、以解疑議、登身朝到、夕召兵還。此言之誠、有如大江!」
權遂改年、臨江拒守。
冬十一月、大風、範等兵溺死者數千、餘軍還江南。曹休使臧霸以輕船五百・敢死萬人襲攻徐陵、燒攻城車、殺略數千人。將軍全琮・徐盛追斬魏將尹盧、殺獲數百。
十二月、權使太中大夫鄭泉聘劉備于白帝、始復通也。然猶與魏文帝相往來、至後年乃絶。
(『三国志』巻四十七、呉主伝、黄武元年)


孫権は魏に対してあからさまに面従腹背であったが、『三国志』呉主伝の方では魏の方から先に攻めてきたようにも見える。



ただ、『三国志曹仁伝ではその前から呉が襄陽を占拠し、曹仁がその呉将を撃破するという話が(曹仁が大将軍・大司馬になる前の事として)載っており、実際にどちらが先に攻めてきたのかは迂闊には断言できない。



何にせよ、結果として呉は魏の攻撃を退け、呉は独自元号を使うようになり、蜀漢との国交を再開する事になった。