『三国志』武帝紀を読んでみよう:その35

その34(https://t-s.hatenablog.com/entry/2020/01/09/000100)の続き。





十七年春正月、公還鄴。
天子命公贊拝不名、入朝不趨、劍履上殿、如蕭何故事。
馬超餘衆梁興等屯藍田、使夏侯淵撃平之。
割河内之蕩陰・朝歌・林慮、東郡之衛國・頓丘・東武陽・發干、鉅鹿之廮陶・曲周・南和、廣平之任城、趙之襄國・邯鄲・易陽以益魏郡。
冬十月、公征孫權。
(『三国志』巻一、武帝紀)

建安17年。



戦場から戻った魏武に、朝廷で名を呼び捨てにされない、朝廷でも小走りにならずに堂々としていてもいい、剣や履をそのままで殿中に上がっていい、といった特権が与えられる。


於是乃令(蕭)何第一、賜帯劍履上殿、入朝不趨。
(『漢書』巻三十九、蕭何伝)


ちなみにこれは確かに蕭何に与えられた特権である。

元嘉元年、帝以(梁)冀有援立之功、欲崇殊典、乃大會公卿、共議其禮。於是有司奏冀入朝不趨、劒履上殿、謁讚不名、禮儀比蕭何。悉以定陶・成陽餘戸增封為四縣、比鄧禹。賞賜金錢・奴婢・綵帛・車馬・衣服・甲第、比霍光。以殊元勳。毎朝會、與三公絶席。十日一入、平尚書事。宣布天下、為萬世法。
(『後漢書』列伝第二十四、梁冀伝)

尋進(董)卓為相國、入朝不趨、劒履上殿。封母為池陽君、置令・丞。
(『後漢書』列伝第六十二、董卓伝)

後漢では、梁冀や董卓も貰っており、相当に特別な恩典と認識されていた事が伺える。




魏郡、謎の巨大化。まあ、この後に起こる事を考えれば言う程謎ではないのだが。



十七年、董昭等謂太祖宜進爵國公、九錫備物、以彰殊勳、密以諮彧。彧以為太祖本興義兵以匡朝寧國、秉忠貞之誠、守退讓之實。君子愛人以徳、不宜如此。太祖由是心不能平。
會征孫權、表請(荀)彧勞軍于譙、因輒留彧、以侍中光祿大夫持節、參丞相軍事。太祖軍至濡須、彧疾留壽春、以憂薨、時年五十。諡曰敬侯。
(『三国志』巻十、荀彧伝)

なお、あの荀彧が死んだのがこの年の末頃。



魏武を国公にし、九錫を賜与するかどうか、という点について董昭ら及び魏武自身と意見を異にしていたとされており、そんな中で今までなかった荀彧の戦場への呼び寄せと尚書令解任という事件が起こり、その後荀彧は死去。



まあ、憶測を呼ぶ展開ではあったろうと思う。



少なくとも、皇帝の詔書の発布に強い影響力を行使しうる尚書令からは離しておきたかっただろう。荀彧が尚書令のままでは、魏武を国公にしよう、九錫を与えようという詔書は発布されないわけだから。