『三国志』武帝紀を読んでみよう:その18

その17(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/12/20/000100)の続き。





四年春二月、公還至昌邑。張楊將楊醜殺楊、眭固又殺醜、以其衆屬袁紹、屯射犬。
夏四月、進軍臨河、使史渙・曹仁渡河擊之。固使楊故長史薛洪・河内太守繆尚留守、自將兵北迎紹求救、與渙・仁相遇犬城。交戰、大破之、斬固。
公遂濟河、圍射犬。洪・尚率衆降、封為列侯、還軍敖倉。以魏种為河内太守、屬以河北事。
初、公舉种孝廉。兗州叛、公曰「唯魏种且不棄孤也。」及聞种走、公怒曰「种不南走越、北走胡、不置汝也!」既下射犬、生禽种、公曰「唯其才也!」釋其縛而用之。
(『三国志』巻一、武帝紀)

建安4年。呂布を殺して徐州方面を黙らせた魏武は、今度は黄河を渡り河内郡へ進出する。




献帝長安から洛陽まで連れて来られた時の功労者の一人である大司馬張楊呂布の味方であったが、部下の楊醜なる人物に殺され、楊醜は魏武に付いた。その楊醜は黒山賊の眭固に殺された。


袁紹に付いた眭固を攻め滅ぼすという事は、魏武は本格的に袁紹と対立するという事だ。



まあ、魏武がこのまま拡大路線を続ける以上、袁紹との対決は回避できない。

(袁)紹遣將攻之、連年不能拔。建安四年、紹悉軍圍之。(公孫)瓚遣子求救于黑山賊、復欲自將突騎直出、傍西南山、擁黑山之衆、陸梁冀州、横斷紹後。
(『三国志』巻八、公孫瓚伝)


袁紹はこの時期は公孫瓚との戦いを続けていた頃であり、魏武に全力を出せるような状況ではなかった。魏武は今の内に河内から進出して袁紹の支配権を蚕食していくという方針だったのではなかろうか。




魏种の話、魏武の「唯才」の事例として語られそうな話であるが、信頼を裏切り、また自分の職を全うも出来ず、更に捕まるまで敵対陣営に居続けた人間は果たして「才」があると言えるのだろうか。まあ、治民官としては優れているとかいった所かもしれないが。