その35(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/11/05/000100)の続き。
太康元年春正月己丑朔、五色氣冠日。
癸丑、王渾克呉尋陽頼郷諸城、獲呉武威將軍周興。
二月戊午、王濬・唐彬等克丹楊城。
庚申、又克西陵、殺西陵都督・鎮軍將軍留憲、征南將軍成璩、西陵監鄭廣。
壬戌、濬又克夷道樂郷城、殺夷道監陸晏・水軍都督陸景。
甲戌、杜預克江陵、斬呉江陵督伍延。平南將軍胡奮克江安。於是諸軍並進、樂郷・荊門諸戍相次來降。
乙亥、以濬為都督益・梁二州諸軍事。復下詔曰「濬・彬東下、掃除巴丘、與胡奮・王戎共平夏口・武昌、順流長騖、直造秣陵、與奮・戎審量其宜。杜預當鎮靜零・桂、懷輯衡陽。大兵既過、荊州南境固當傳檄而定、預當分萬人給濬、七千給彬。夏口既平、奮宜以七千人給濬。武昌既了、戎當以六千人增彬。太尉充移屯項、總督諸方。」濬進破夏口・武昌、遂泛舟東下、所至皆平。王渾・周浚與呉丞相張悌戰于版橋、大破之、斬悌及其將孫震・沈瑩、傳首洛陽。孫晧窮蹙請降、送璽綬於琅邪王伷。
三月壬寅、王濬以舟師至于建鄴之石頭、孫晧大懼、面縳輿櫬、降于軍門。濬杖節解縛焚櫬、送于京都。收其圖籍、克州四、郡四十三、縣三百一十三、戸五十二萬三千、吏三萬二千、兵二十三萬、男女口二百三十萬。其牧守已下皆因呉所置、除其苛政、示之簡易、呉人大悦。
乙酉、大赦、改元。大酺五日、恤孤老困窮。
(『晋書』巻三、武帝紀)
太康元年3月まで。
もっとも、改元までは咸寧6年と言っていたはずだが。
呉、滅ぶ。
戦死している陸晏・陸景はいずれも陸抗の子。
丹楊・西陵・江陵・夏口といった要地が次々と落ち、晋軍が建業へと進軍する。
時衆軍會議、或曰「百年之寇、未可盡克。今向暑、水潦方降、疾疫將起、宜俟來冬、更為大舉。」(杜)預曰「昔樂毅藉濟西一戰以并強齊、今兵威已振、譬如破竹、數節之後、皆迎刃而解、無復著手處也。」遂指授羣帥、徑造秣陵。所過城邑、莫不束手。議者乃以書謝之。
(『晋書』巻三十四、杜預伝)
杜預の軍中ではこれから暑くなり疫病発生も懸念されるので、冬場まで待とうという案も出たようだが、杜預は今こそ一気に攻め落とす好機と見て戦闘継続。まさしく破竹の勢いで呉は平定されていく。
呉の皇帝孫晧は降伏し、帰命侯という地位を与えられた。