『後漢書』孝霊帝紀を読んでみよう:その23

その22(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/04/14/000100)の続き。





三年春二月、江夏兵趙慈反、殺南陽太守秦頡。
庚戌、大赦天下。
太尉張延罷。車騎將軍張温為太尉、中常侍趙忠為車騎將軍。
復修玉堂殿、鑄銅人四・黄鍾四及天祿・蝦蟆、又鑄四出文錢。
五月壬辰晦、日有食之。
六月、荊州刺史王敏討趙慈、斬之。
車騎將軍趙忠罷。
秋八月、懷陵上有雀萬數、悲鳴、因鬬相殺。
冬十月、武陵蠻叛、寇郡界、郡兵討破之。
前太尉張延為宦人所譖、下獄死。
十二月、鮮卑寇幽・并二州。
(『後漢書』紀第八、孝霊帝紀)

中平3年。




「四出文銭」というのは、銭の中心に空いている四角の穴の角から外側に向けて線が一本ずつ出ている銭の事であるらしい。全部で四本の線の模様(文)という事か。



南陽太守秦頡は黄巾に対しては張曼成を倒すなど功績も立てているのだが、ここでは殺されている。それにしてもこの時期の荊州は中々物騒である。



邊章・韓遂作亂涼州。中郎將董卓拒討無功。中平三年、遣司空張温行車騎將軍、西討章等。温表請(孫)堅與參軍事、屯長安
(『三国志』巻四十六、孫堅伝)


あの孫堅が張温の元で西へ行ったのがこの時だそうだ。孫堅董卓を処刑するよう張温に求めている。



その孫堅が後に殺す事になる「荊州刺史王叡」。ここで出てくる「荊州刺史王敏」との関係は不明。名前の字形が似ているように思えない事もない。