『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その69

その68(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/02/02/000300)の続き。





春二月、熒惑守心星。占曰、王者惡之。
立皇子建為燕王。
上撃黥布時、為流矢所中、疾甚。呂后迎良醫。良醫曰、可治。上怒曰、吾以布衣提三尺取天下。此非天命乎。命乃在天、雖扁鵲何益。遂不使治。呂后問曰、陛下即百歳之後、蕭相國終、孰可代者。上曰、曹參可。又問其次。曰、王陵可、然少戇、陳平可以佐之。平智有餘、然難獨任。周勃厚重少文、然安劉氏者必勃也、可為太尉。又問其次。上曰、過此以後非乃所知。
先是上嘗疾困、惡見人、詔戸者無納群臣、群臣莫敢入。十餘日、樊噲乃排闥直入、大臣隨之。上獨枕一宦者臥。噲等見上流涕曰、陛下疾甚、大臣震恐、久不見臣等計事。顧獨枕一宦者。嗟乎、陛下獨不見趙高之事乎。上笑而起。
初、上欲廢太子。呂后聞之、使留侯為太子計。留侯曰、上有所不能致者四人。曰東園公、夏黄公、用里先生、綺里季。皆逃在山中。然上高之。今令太子卑辭安車、迎此四人來以為客、時隨入朝、則一助也。呂后從其計。四人果來、年皆八十、鬚眉皓白、故謂之四皓。初黥布反時、上欲使太子將兵撃布、四人相謂曰、凡來將以安太子、太子將兵、事危矣。有功則位無益也、無功從此受禍。乃令呂后對上泣涕而言、黥布善為兵、諸將皆陛下故人、今乃令太子獨將兵撃之、恐諸將莫肯為用。且懼布聞之、鼓行而西耳。陛下雖疾、彊載輜車臥而護之、諸將不敢不盡力。上乃自行。及還、其疾稍愈、欲易太子。太保叔孫通固諫曰、晉獻公以驪姫故、廢太子申生而立奚齊、晉國大亂數十年。秦不早定扶蘇、胡亥詐詔自立、使滅絶秦祀。臣敢以死爭之。上雖聽之、而心欲廢太子。及讌置酒、太子侍、四人從。上怪而問之。四人前對、各言姓名。上乃驚曰、吾召公等不奉詔、今侍太子者何。四人對曰、陛下喜罵輕士、臣等義不受辱、故亡。今聞太子仁孝、愛人敬士、天下莫不延頸願為太子死者。臣等故來。上曰、煩公等幸卒調護太子。四人退。上召戚夫人指示曰、吾欲易太子、彼四人者為之輔、羽翼已成。難搖動也。太子遂定。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)

劉邦、治療を拒否。天命だからというのは項羽も周囲を顧みずに自滅した時に語った言葉である。



呂后へ語った将来への指示は全て実現した予言。やはり超能力者だったのか、それとも後から作られた話なのか(普通は後者だと思う所)。




劉邦、皇太子チェンジを考えるが、臣下たちの反対と皇太子(後の恵帝)の名望を知って断念。


及高祖為漢王、得定陶戚姫、愛幸、生趙隠王如意。孝惠為人仁弱、高祖以為不類我、常欲廢太子、立戚姫子如意、如意類我。戚姫幸、常從上之關東、日夜啼泣、欲立其子代太子。呂后年長、常留守、希見上、益疏。如意立為趙王後、幾代太子者數矣、頼大臣爭之、及留侯策、太子得毋廢。
(『史記』巻九、呂太后本紀)


劉邦は、太子は自分に似ていない、趙王如意は自分に似ている、と言っていたそうだ。太子の性格が皇帝向きでないと心配したのかもしれないが、反対意見が強いとわかれば取り下げる分別は持っていたようだ。



ちなみに、これよって逆に身に危険が及ぶ可能性が強まった趙王如意には、自分が信頼する臣下だった周昌を付けている。