『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その68

その67(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/01/31/000200)の続き。





十有二月、還京師。
民遮道上書數千人、言相國彊賤買民田宅。上笑曰、相國亦愛利乎。使相國自謝民。
後蕭何為民復請上林苑中空地、令民得入田、無收稿為禽獸食。上怒曰、相國多受賈人金錢、為人請吾苑。乃詔下廷尉。王衛尉諫曰、相國何罪、繫之暴也。上曰、吾聞李斯相秦、有善歸主、有惡自與。今相國多受賈人錢、為請吾苑、以自媚於人。王衛尉曰、事苟有便於人而請之、宰相職也。陛下奈何乃疑相國受賈人金乎。且陛下拒楚數年、及陳豨反時、上自將兵往。當時相國守關中、關中搖足、則關西非陛下之有。相國不以此時為利乃今利賈人金錢乎。且秦以不聞其過而亡天下。夫李斯之分過、又何足法哉。上乃令相國復其位。
詔為秦始皇帝置守廝三十家、楚隠王十家、復無所與。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)


劉邦、蕭何に一喜一憂。



蕭何の評判が良くなりすぎると、劉邦としては警戒を強めなければいけない、という事である。



とはいえ、今回の劉邦による蕭何への警戒は、「蕭何は商人と結託して私腹を肥やしている」と疑ったものであるとされていて、これはもしかして蕭何が劉邦の疑いを解こうとして自ら私腹を肥やして見せた事が逆に作用したのだったりしないだろうか。だとしたら皮肉な話である。



十二月、高祖曰「秦始皇帝・楚隠王陳渉・魏安釐王・齊緡王・趙悼襄王皆絶無後、予守冢各十家、秦皇帝二十家、魏公子無忌五家。」
(『史記』巻八、高祖本紀)

高祖時為陳渉置守冢三十家碭、至今血食。
(『史記』巻四十八、陳渉列伝)

劉邦始皇帝陳勝、そして魏などの王のために墓守を置いてやった。その墓守の戸数が資料によって一定しない理由はわからない。


高祖始微少時、數聞公子賢。及即天子位、每過大梁、常祠公子。高祖十二年、從撃黥布還、為公子置守冢五家、世世歳以四時奉祠公子。
(『史記』巻七十七、魏公子列伝)


なお「魏公子」とは魏の信陵君こと魏無忌。劉邦はこの魏公子を尊敬していたため、特別扱いしたそうだ。