『漢紀』高祖皇帝紀を読んでみよう:その70

その69(https://t-s.hatenablog.com/entry/2019/02/03/000100)の続き。





春三月、詔曰、吾有天下十二年、于今與天下賢士大夫共安輯之、至于褒賞功臣、可謂無負矣。其不義、背天下約、擅起兵者、與天下共伐誅之。
夏四月甲辰、帝崩于長安宮。
呂后畏諸將大臣、與審食其謀欲盡誅大臣、數日不發喪。酈商謂辟陽侯曰、今陳平・灌嬰將十萬眾守滎陽、樊噲・周勃將二十萬眾定燕・代。此四人聞帝崩、諸將皆誅、必連兵還嚮京師。大臣内叛、諸將外反、亡可翹足而待。審食其言之於呂后、乃以丁未發喪。
大赦天下。
盧綰聞上已崩、遂亡入匈奴中。
五月丙辰、皇帝葬長陵。
本志曰、高祖入秦、初順人心、作三章之約、天下既定、命蕭何定律令韓信申軍法、張蒼定章程、叔孫通制禮儀、陸賈進新語。又與功臣剖符作誓、丹書鐵券、藏之宗廟。雖日不暇給規模弘遠矣。
(『漢紀』高祖皇帝紀巻第四)

劉邦、死す。



皇后呂氏(呂后)は皇帝劉邦の死を隠そうとしたり、大臣たちを消そうとしたり、さっそく不穏な感じである。



高帝從破(英)布軍還、病創、徐行至長安。燕王盧綰反、上使樊噲以相國將兵攻之。既行、人有短惡噲者。高帝怒曰「噲見吾病、乃冀我死也。」用陳平謀而召絳侯周勃受詔牀下曰「陳平亟馳傳載勃代噲將、平至軍中即斬噲頭!」
二人既受詔、馳傳未至軍、行計之曰「樊噲、帝之故人也、功多、且又乃呂后弟呂嬃之夫、有親且貴。帝以忿怒故、欲斬之、則恐後悔。寧囚而致上、上自誅之。」未至軍、為壇、以節召樊噲。噲受詔、即反接載檻車、傳詣長安、而令絳侯勃代將、將兵定燕反縣。
(『史記』巻五十六、陳丞相世家)

なお、劉邦は臨終間近の頃、樊噲の事も疑って殺そうとしていた。陳平らが「陛下も後悔するかもしれないし、自らに処断してもらおう」と図っているのは、実際には劉邦が後悔するというよりは、戻る頃には死去してしまうのではないか、と考えたという事だろう。そうなったら呂后が事実上のトップであり、妹の夫にあたる樊噲を殺した陳平らは許されない。




何にしろ、劉邦に樊噲が殺されそうだったり、呂后に大臣たちが殺されそうだったり、劉邦の死を軸に一気に殺伐としてきた感がある。元からそんな平和な世界ではなかったが。