『史記』項羽本紀を読んでみよう:その41

その40(http://d.hatena.ne.jp/T_S/20181001/1538319859)の続き。





項王軍壁垓下、兵少食盡、漢軍及諸侯兵圍之數重。
夜聞漢軍四面皆楚歌、項王乃大驚曰「漢皆已得楚乎?是何楚人之多也!」
項王則夜起、飲帳中。有美人名虞、常幸從。駿馬名騅、常騎之。於是項王乃悲歌忼慨、自為詩曰「力拔山兮氣蓋世、時不利兮騅不逝。騅不逝兮可奈何、虞兮虞兮奈若何!」歌數闋、美人和之。項王泣數行下、左右皆泣、莫能仰視。
(『史記』巻七、項羽本紀)

項羽、垓下で包囲される。



そこであの「四面楚歌」が炸裂。まあ、周殷の軍も合流していたようだし、そもそも劉邦の挙兵に最初から付き従った古参は「楚兵」と言う事になる。




そういった者たちの声を聞いたとしても不思議ではない。




だいたい、項羽も楚の王ではあるが、楚の本来の主(懐王)を殺したり、英布を討伐したり、それまでだって楚歌を歌う連中と戦っていたではないか。



何を今更驚くのか、という気もしないでもない。




五年、高祖與諸侯兵共撃楚軍、與項羽決勝垓下。淮陰侯將三十萬自當之、孔將軍居左、費將軍居右、皇帝在後、絳侯・柴將軍在皇帝後。項羽之卒可十萬。淮陰先合、不利、卻。孔將軍・費將軍縱、楚兵不利、淮陰侯復乗之、大敗垓下。項羽卒聞漢軍之楚歌、以為漢盡得楚地、項羽乃敗而走、是以兵大敗。
(『史記』巻八、高祖本紀)

なお、同じ『史記』でも高祖本紀によると、韓信の指揮の元で漢は項羽を破ったとされている。



どちらにしろ、楚歌を聞いて楚が全て漢の側に付いたと思って戦意喪失したという事らしい。




まあ、実際に彭城方面は彭越がいて、淮南は反旗を翻したわけで、正直、漢が楚の大半を勢力下に置いたという事なら誤解でも何でもない事実である。




そういった情勢そのものは垓下で戦う前の段階で分かっていても良さそうなものだ。結局、項羽は絶対の自信があり、また逆転のための最低条件である会戦での勝利を得られず、むしろ負けてしまった事で心が折れた、という事なのかもしれない。