殷王の立ち位置

項羽之東王彭城也、漢王還定三秦而東、殷王反楚。項羽乃以(陳)平為信武君、將魏王咎客在楚者以往、撃降殷王而還。項王使項悍拜平為都尉、賜金二十溢。居無何、漢王攻下殷。項王怒、將誅定殷者 將吏。
(『史記』巻五十六、陳丞相世家)

三月、漢王從臨晉渡、魏王豹將兵從。下河内、虜殷王、置河内郡。
(『史記』巻八、高祖本紀、高祖二年)


項羽によって建てられた王のうちの一人、殷王司馬卬。




彼は高祖二年に東進した高祖こと漢王劉邦に捕えられているが、それより以前に高祖の東進に呼応するように反乱を起こして楚に刃向っていたらしい。






高祖二年の三月というのは秦討伐軍解散から一年しか経っていない時期である。



もうこの時点で、項羽に王にしてもらうという多大な恩賞を受けたはずの王はあっさり項羽を見限ったと言うこともできる(殷は劉邦項羽の間にあるため、劉邦の進路になってしまうから仕方ないとも言えるだろうけれど)。




もしかすると、元は趙将だった司馬卬は趙でのゴタゴタ(陳余は項羽に刃向って勝手に王を立てた)なんかも絡んで項羽に反感を持っていたのかもしれない。